5 月 16th, 2012
あの人誰ですか、この人誰ですか。そんな質問には答えられないというか、その質問に答えがない。誰でもないというか、名前しかない、それで誰という質問に答えられたものか。と思っていたら、ぼくもようやく30歳になってしまう。今年の秋頃の話なのだけど、30歳になる。30歳の人間になってしまう。非常に感慨深いというか、当たり前だけど、小学生頃は30歳に自分がなるなんていうのは、ほぼ想像していない。そういう細かな断絶の中でしか想像できないタームのなかで生きるのだ。そうだよ、大きさ(時間の幅も大きさと言う)が問題なんだ、遠距離恋愛でも歴史でもその当事者との距離が大事だし、時間だって本当はみんなに平等にあるんじゃなくて、存在している次元によって大きさが違うというのはもう既に一般論だろう。そういうことを考えると、ほとんどのものが相対的に自分の大きさと比較しながら、生きているんだなあとという雑な考え。
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5 月 15th, 2012
そもそも、言葉は人間のためにしか存在していない。当たり前だけども、人間が言葉を作った。なので、非常に都合がいいというか、都合のいい言葉というのがあるけれど、そもそも言葉自体の存在が都合のいいだったのということを忘れるなと言われている気分だ。だとしたら、すべての言語による思考なんてどうも自分に都合のいいものじゃないか、おかしな事言ってるじゃねえよと言われても反論できないでいる。どうもそういうことを考えると神秘的な方向になってしまうのかもしれないが、そもそ神秘的は何なのだろうか。そいう次元以外のことを考えるというのは、非常に困難である。
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5 月 14th, 2012
人間はいつから忙しくなったのか。そんなことは知らん。たいていの場合は、それは言い訳という文句の為に作られた言葉だとしか思えない。真に忙しい人なぞいるものか、なんて言うと多くの反感を買いそうだけれども、そう思うから、そういうことにしておく。加えて多くの場合は、忙しいと言う為に忙しく仕向けているに過ぎないこともあって、人生が本当に忙しいなら、そもそも生きているということはどういうことか、面白くなりそうだ。忙しいとは、お前には構っている暇はないという宣言であって、別に何もする時間がないという意味ではない。つまり、やることは非常にたくさんあるのだ。「何もする時間がない」言い方自体が、自己矛盾なのであって、何もする時間が本当になければ、そもそも生きていないのだ。時間の中にいないのだ、それは既に死んでいるというか、産まれてもいない。ということを考えれば、言い訳として忙しいということはきっと、ひどく失礼で無礼な行為なのかもしれないし、思い返してみればひどく失礼をしたい時にそういうことを人に言っていたのかもしれないと反省した。ということは、正解は、いつだって非常に暇であると言わないといけない。やることがあり過ぎて、時間があり過ぎるというのが正しい解答だ。
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5 月 14th, 2012
実は、この頃は純粋に作品を作ること以外にも、本を書こうとしていたりしているのだけど、これがどうもうまくいかん。というか慣れない作業でどうやったらいいのかあまり実感がないというのが正確なのかもしれないし、集中力もその都度変化してしまうので、書くのが結構大変。でも果敢に挑戦するしかないと思ってやろうとはしているのだけど、これまた違う作業をしてしまったりしていて、肝心の文章が点でバラバラの方向で進むのかしら。なんて思うこともよくあって、まあそれはそれでよかろう。と思うことにしないと、自分自分を苦しめることにしかならんぞ、とも思うがやらないといけない時は、やらねばならん。そうなのだ。いつだって、やらねばならん時という判断がどうも胡散臭いというか、それはいつなのだと思うことも良くあるけれど、人生いつだってそうじゃないかという囁きも聴こえるけど、そうしたらどうも色気のない腐った職業人にもなってしまうじゃないかとも思うが、はたしてアーティストはアーティストの外部に出ることは可能なのか。そんな反論はきっと愚問かもしれないので、よしておこう。くだらない人といのは、きっとそうことで24時間ぼくのように頭がいっぱいになってしまうのかもしれないけれど、そうじゃない人がいるものか。心配なのよ、きっといつかロマンティックな人生になるんだと思うながら、腐った玄関を抉じ開けろ。
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5 月 13th, 2012
Jeniffer Allora & Guillermo Calzadilla tizaというアーティストがLimaで行ったプロジェクトチョークを25フィートに拡大して、政治的な場面などに持っていき路上に放置する。確かにこのプロジェクトは断片的にだけど、どこかで画像を見たり記事をしていたと思うのだけど、よくよく作家の名前を見たら前回のヴェニスビエンナーレで戦車をひっくり返して、そのうえでランナーを走らせるというプロジェクトをやっていたのね。全然これとあれとが、結びつかなかった。しかも、アメリカ代表として出品しているだからもっと気づかない。そろそろチャイムがなるのかな。
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5 月 11th, 2012
近所のコンビニで店員の教育なのか、店長らしき人がアルバイトが「20%増しくらいの声を出しなさい」と言われていた。ひどく虚しいというか、どうでもいいことにどうしてこんなに情熱が出るのだろうかと不思議で溜まらないというか、その人は別段声が小さいというわけでも何でもなくて、ただ大きい声を出せばいいわけじゃないのは、誰でも分かっているのだけど、雇われた身分、そんなことは言えないので、黙って(いや違うけれど)声を出すように訓練されていた。ぼくはそれを見て何か言おうかしらと思ってけれど、今日はここに手を出しても仕方がないと思って辞めておいた。基本的に日本の商売は、結構どなったり叫んだりするのが好きらしい、スーパーに行っても室内なのに、なぜか魚屋が叫んでいたり、パン屋がどなっていたり、野菜売り場の人が雄叫びをあげていたりするし、それでもそれは当然なのよという顔でみんな買い物をしていた。いや、違う日本だけのことじゃない。イスタンブールでも歩き売りのあのおやじも、何かよく分からない呪文みたいなのを叫んでいた。それでどうにかこうにか、人々が集まってくるみたいだった。不思議なのは、日本は目の前に人がいてもお構いなしに叫び声をあげることで、すごいいつも不思議に思う。
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5 月 11th, 2012
そうだよねえ、すいませんでした。という風に謝るつもりは全くないのだけど、そう言ってくれて結構だと言われているような気分にさせてくれるひとがいたりして、しかも根掘り葉掘りいろいろ聞いているとだんだん相手の顔がおかしくなってきて、ああこれは怒っているなあと思うこともあったりして、時々「失礼です」と言われることがあるけれど、ぼくはなんにも失礼だとは思っていないから、ひとまず分からないことは聞く。女性に、あなたおいくつになりまして?と聞くのは失礼らしい。体重はいくつですか?と聞くのも失礼らしい。給料はいくらですか?確定申告してますか?とか聞くのも失礼らしい。良くわからないけれど、これは女性限定で失礼になるらしい、事実ぼくはこうゆうことを時々聞かれる。ちゃんとご飯食べてる?とか体重どれだけ?とか、ちゃんとお金あるの?財布にいくら入ってる?とか聞かれるから、普通に答える。もう一度言うと、これは女性には失礼らしい。女性はベールに包まれた存在じゃないといけないらしい、具体的じゃないほうがいいらしい。そいうことを言うとまた、失礼ですと言われるけれどそうみたい。具体的な質量を持っていないのが女性の特権らしい。その感覚に反論したいわけじゃないけれど、その感覚でいつまでいられても困る事もある。ぼくらは人間だ、分からないことも度々あるだろう。少なくとも建前上は、同じ世界に同じ社会に生きているはずで、違ったレイヤーなのよと言われるかもしれないけれど、ぼくはあなたの事が見えているわけで、その存在の半分くらいはなんとなく認識しているますぞ、ということなんだけど、どうなのかしら。そう言われる度、へえそうなのかあ、じゃあ今度はもう聞きません、と肝に銘じるのだけど、その項目が多いから困る。最近気づいたのは、数値は聞いてはダメだろうなということだった。数字は、より具体的な極地なので、数字以外の方法で認識を深めるがいいらしい。体重は100kgですと言うよりも、お相撲さんよりは重くないと言ったほうがなんとなくイメージがいい。そうイメージで生きているのだと言いたいのかもしれない。そうだけどねえ、ぼくらはコンビニでイメージは買うことができないし、死ぬ時にイメージがどうだとか言うのもなんとか腑に落ちないというか、死ぬならもう怒られないから、そんなの嘘だよと言ってやりたい気分にもなるんだれど、そいうことを言って納得するのはまずいないのかもしれない。そして、もうひとつ気づいたのは、人(特に女性は)人生をより良く生きることに専念しているのであって、ぼくにその感覚はこれっぽっちもないのだった。非常にぼくは虚しい人生観のなかで生きていると言えばそれまでかもしれないけれど、ぼくは少なくとも闘いを強いられていると思い込んでいる節があって、人生が豊かになるとか充実させるという感覚ではない。先に目的があって、それをいかに達成しうるかという野望的な闘いだ。格好つけて言えばだけど。だから、与えられた有限の人生のなかで、自分を豊かにする、という感覚ではない。寧ろ、目的の為には、自分が被害にあってもいい。実際のところ、アーティストを続けるうえで、多大なる貧困に立ち向かううでは、この考えは強い。屈することはない。ただ考えて見れば、どちらが自分なのかも分からない。目的に向かう丹羽良徳も自分だが、腹が減っている丹羽良徳も自分なのだ。というような、二重のレイヤーのなかで自己の像を結び上げていきている。だから女性の友人により良く生きることを説明されても、ぼくはこれっぽちも理解できないまま時間が過ぎ去ってしまうような気分だった。でもそれはそれでいい。分からないことは、聞けばいい。ただ、問題なのは、分からない事ばかりの世界のなかで、いつのまにか分かっている事にされていることを皆はいつどこでそう理解しているんだろうかと、いつも疑問に思ってしまう。お金を獲得(敢えて稼ぐとは言わない)術だって、働く術だって、どこでどうそう覚えたのだろうか。ぼくにはこれっぽっちも、分からない。だから、いつも0から全部聞こうとするのだけど、どうも具合が悪いらしく、なんでそんなこと聞くのかね?あなたは、みたいな顔をされて、仕舞いには機嫌が悪くなるひともいる。だけれども、僕からしてみれば、分かっていることは、自分がいつか死ぬだろうという事くらいで、その他のことはこれひとつとして理解できないままでいる。だから、作品が作れるのだと思って信じて止まないのだけど、そうでもしなくて、本当に人生を豊かになんてできるものか?という疑問でいっぱいだ。永久に分からないまま死んでしまうのかしら、なんていう一抹の不安もあるのだけど、ようやく30歳になろうとしつつある段階のなかで、いやこれはもう40歳になっても、50歳になっても同じことだろう、いきなり神様が降臨することなんてないだろうという想像はつく。あるアーティストに聞いたところ、40、50歳でも全然、失恋するよ、と聞いた。当たり前だ。でもそういう、当たり前の事を言ってくれる人が僕はとても、必要だと思う。いや違う、ぼくはその聞いている女性と距離が遠いのではないか。それは事実そうなのかもしれないけれど、距離は測るものであって、作り出すものではないだろう。いや、何を言っているか自分でも分からない。例えば、あ、あの子可愛いなと思うコンビニの店員がいても、レジでおつりをもらう瞬間に手を握り返しえて離さないままでいれば、きっと警察に連れていかれる。いや、現代都市的にはそこから始まるかもしれない。いや、間違えていけないのは、それは単なる不審者なのであって、一方的な攻撃に過ぎない。
生活だとか、暮らしだとか言う言葉が非常に嫌いだ、意味が分からない。そもそも意味がないから苦手なのかもしれない。そこに充実感を得られる人ならば、よかろう。ただぼくには無理だ。人生はなんらかの目的化されたものでなければ、そうしてこんな虚無の時間をやりすごせようか。否、人生そのものの時間の中に浮遊すればいいじゃないかとも思う人もいるだろうけれど、それじゃ何もかも台無しだ。さよならだけが人生ではなかったのか。そんな事を想い巡らせていると、有限の人生の時間の中でよりよく健康的に暮らすことが幸せだなんて言うのは、何か忘れ物が多過ぎな気がしてならない(誰かの批判をしているわけじゃない)。ビールを飲むことが苦手なのも、同じ理由だということに最近気づいた。ビールを飲むことに意味はない。でも大抵の意味のないことは、ある一部の人にとっては快楽的であって、心地の良いことらしい。そいうことを考えていると、ひどくつまらない実も蓋もない人間のようだけど、とにかく当たり前のことがどうにか、分からないままで生きて行くのが一番充実した人生になるように思えてならない。
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5 月 10th, 2012
いいなあ、ずるいなあ。なんて言うのが最近の口癖で、なんだか知らないけれど、旅で立ち寄った場所とかでそんなことばっかり言っていた。当たり前かもしれないけれど、必死で駆け巡りまくって滞在制作していたロシアとかスイスとかフィンランドではそんなことは一言も言った覚えがない。そう考えると、日本で僕は何をやっているんだろかということになってきて、馬鹿野郎、もっと必死になれよこの糞野郎なんていう言葉も聴こえてきそうだけれど、まあそんな事でここのところそういう言葉を言った。ただし、最大の問題というのは、軽くはいいなあ、ずるいなあと思っていても心の底から憎めるほどにずるいなあとは思っていないことで、ここは二重のレイヤーに隠された言葉を発しているようだということだった。それは、不確かなことなのだけれど、ずるいなあと思いつつも、このやろう今に見ていろ!と思うような事を同時に心の底に決め込んでいる突き刺さるな日常生活の荒波に飲まれ込んで溜まるものか!という捻くれた天の邪鬼的な意志表明なのかもしれない。コーヒーが不味過ぎてどうする。
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4 月 23rd, 2012
それはバレてはいけないことなんだ。というと、何だか物語の始まり予感がしてしまうのだけど、そうじゃない。そうではなくて、ある野心的な目的のために立てられた戦略的な行動においては、あるときは非合法手段や水面下の計画だってありうるということだ。しからば、日々の生活はそのように計画されるべきではないかと思う。いつの時代だってそうだ、ぼくらが満足に生きていける保障なんて誰もしないし、する筈もないし、して欲しいとは本当は誰も思っていないくせに、幸せにだとか、毎日静かに暮らすとか言って、なんだか良く分からない雑誌だとかが出版されたりするので、毎日いらいらする。すくなくとも闘争していてくれれば、まだ落ち着くというものだ、もっとぼくを焦られてくれよ、思うがそれもとても日和見的な考え方でしかないので、最終的にはスターリニストだと批判されても仕方がない。そういう意味では、穴も空いていて洗濯もしてないしズボンばっかり履いているけど、まあそれでも諦めるには、まだ早いぞと言われるような気分になったりもする。救いの方法は禁欲しかない。
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4 月 11th, 2012
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4 月 10th, 2012
歴史の土台の上で生きるとは簡単に言えることなのだけど、実際どうするのか。その答えはぼくはまだ分かっていない。橋下徹さんの言うところによれば、政治の本丸は具体的に行動に移すことだと言う、いやそうなのだ。政治はそうなんだ、実際のことを決める。決めなきゃいけない。そう間違ったことに後々なろうが、なかろうが決めなきゃいけない、だから問題になって暴動がおきたりする。確かにそれはロマンのあることだろう。だだそれと同じ方法論で語ろうとするのにも無理がある。僕らはそれじゃ無理だと言う、思い込みも持っていないといけない。芸術は元来無駄であったという余分な余剰な空間からの人間性の回復ではないのか?という基本原則を忘れてはいけないだろう。政治だけで国がきちんと動かせると思ったら、大間違いなのだとうことだ、だって国民全員が政治家になるなんてないだろう。ぼくらの精神の根幹を成すイデオロギーはどこからやってきているのだろうか、冷戦以降イデオロギーの崩壊と言われて久しいが、実際のとのころはどうだろうか、そんな疑問で一杯だ。敗戦後の日本はどのように、このように成長してきたのか。実際ところ歴史を横断して生きていきているわけではないので、実感として確かめようはないのだが、きっと残されているとすれば、消え行く記憶をどこかでたぐり寄せて、つなぎ止めようとすることではないか。そういう意味では、ドキュメンタリー映画というものに、価値をもっと見いだしていいのではないかとも思う。かなり滅茶苦茶に書いている文章なので、許して。推敲はしていない。芸術の専門用語で「サイトスペシフィックアート」と呼ばれるものがあるが、それを応用すれば「タイムスペシフィックアート」というものが必然的に重要になってくるのではいかという確信。決められた時間の中でしか生きられないのが人類であるならば、そこで生み出される芸術というものも、当然「タイムスペシフィック」として認識されていってもいいのではないかと。で、そこで何が変わってくるのかというと、真理云々の話になってきて。そんなものは、もう重要じゃないかもしれないということ。そうすると、どうなのか、真理や事実以外に、じゃあどうするか、それこれをどう処理するかという行動に集約されてくるんじゃないかということ。それは芸術の得意分野だ。ふらふらしてる場合じゃないけどね。
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4 月 7th, 2012
「もう、○○は二度とやらない」と何と考えただろうか、今日だって内容は明かさないけれど、そういうことを考えていた。合理的で世渡り上手な人はそんなことしないで、選択肢をたくさん持っていたほうが可能性だって広がるに決まっているし、生命を賭けた闘いならばそんなこと言っていないで、目的は手段を正当化するとも言うのかもしれない。それにしても、ぼくはそう言った行き方ができないで、倫理と精神をごちゃまでにして、まごついている凡庸な人間なのだ。もう二度と酒は飲まないと言っていたのも、然り。きっともっと酒が飲めれば、出会う人も増えるだろうし、話だって進むのかもしれないし、考えつかないことも突然結び付くのかもしれない。但し、ぼくは酒でなくて、珈琲なのだ。そこにあるのは選択肢や可能性なんかではなくて、単なる決定なのであって、自分自身が決めた規範なのだ。それに自分自身が従属するなんていう考えは、これっぽっちもないが。突拍子もないが、だから芸術家をやっている。そう昔の僕が決めたからだ、自分が言ったことに自分が従わないのは、みすぼらしいことだ。やらない事を次々に決定していくことは、やる事をどんどん決めることにもなる。精神貧弱な自分に変わって意志決定をさせるためにも、それはやらねばならぬ。続きはWEBでなどではない、続きも自分なのだ。
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