計画に関して

3 月 10th, 2010

見つからない物を探すというのは、単なる言語の矛盾だけじゃなくて、見つからないから探すわけであって実はとても合理的というか、同時成立的に、見つからなくなったから見つけられないという名前が付けられたような感じがあって結構好きだ。でも好きだということだけじゃ、駄目なんですとか言う人もいて、もっと論理的な説明をしなさいと言う人もいて、じゃあどうするかというと、リンゴが落ちるのは重力があって、重力というは物体と物体が引き寄せるエネルギ−のことであって、どうのこうのであって、それがこうのこうでこうなっているんです、とどこまででも続けることができてしまって、多分人生が終わるまでそれは続けることが可能であって、じゃあどこで終わればいいのかということが、結構な問題となっていて、それが実は見つからない探し物っぽい感じがする。

とっても簡単に言うと死ねば終わるのだけど、そんなの消極的だと言う人もいるけれどそれが以外にぼくは方法を知らないと思う。そしてすべての哲学が計画でしかないという事実とその限界性に対してぼくは、とても共感と喜びを覚えると共に、探すという事自体がつまり自己矛盾というか「探し出されたもの」には興味がないにも関わらず探さないといけないという窮屈さのなかで自己を埋没しないように努力したいと思う。


公共は盗むことができるか

3 月 6th, 2010

「おやすみない」という言葉はいつ生まれたんだろうかと考えてみる。僕らはいつの時代に生まれようとも時間の有限性のなかで、つまり命や感情はいつしかなくなってしまうことだったり、いつしか自分の身が砕け散ってしまうという儚さのへの些細な抵抗が文明を支えて来たようにも思えるし、その反抗が願いかなうとは分からないままに進んできたと思う。でも確かに技術や文明だったりしない文化の中に、人間が人間であることの面白さが隠されたいると思った。それはどの人生の場面であっても日々の暮らしは、出会いと別れに集約されているように思える、それがさまざまな形になって繰り返されているのであって、それがまさに人生なのかもしれないなあと思う。ぼくだって日本に帰るといつも、簡単に資本主義経済の闇に没落してしまいそうになって、何が労働で何が仕事なのかおぼつかない状態になりかけることもあるけれど、はっきりしておかないと大変なことになることが沢山あると思う。多くの場合はそれが公共という概念と結びついているような気がする、私達日本人にとって公共とは一体なんだろうかと想像することは、かなり難しい。たぶんそんな概念がほぼ無いんだと思う。よく公共の場で「そんなこと」してはいけません。と聞く事があるけれど、たいがいの場合は「人様の前で」という言葉に置き換えられる。というのは、人に迷惑をかけてはいけない、人が不快だと思うことをしてはいけないと言うかもしれない。もちろんどこに行っても迷惑をかけていい場所なんかどこにもないと思う。ただしだ、そこでおざなりになっているのは、おそらく「人様が思うように振る舞いなさい」ということにいつの間にか変換されているような気もする。で、例えば「公共」を盗むことはできるか?ヘルシンキで聞いたら答えはNOだった。それは誰の物でもないし、盗む内容というものがない。市民の手でどんどん変化してくものだ。どうなろうとも皆の責任で、みな関係していくものだ。ただおそらく日本で聞いたらYesになるとぼくは思う。つまり公共の内容というものがある程度設定されているからだ。これは大きな違いなのではないかなあと思った。以前、イラクで拉致された日本人に自己責任と言った人たちには、きっと自分とは関係のない世界というものがあると信じられているからではないかと思った。そのことととても似ているような気がする。


[2010] ESITYS no.8 2010.1 / p.18-19

3 月 5th, 2010

interview by Tuomas Laitinen
text by Pilvi Porkola


隠された接頭語は「行ってきます、さようなら」でしかないような気がする

3 月 4th, 2010

最終的にひとは何を残せるんだろう、と考えると何も残せない気がする。残した気がしているだけで作品が美術館に所蔵されったて、アーカイブに記録されったてそんなのまやかしだとしか思えないと思った。そんなの事言ったら、誰だっていつもどこかで誰かと会って何かを話て、人に何かを伝えてちゃんと残している。そういうことなんじゃないかと思った、だからすべての物は消滅するという大前提のもとで生きていたほうが賢明なのかもしれないなと思った。ぼくは運よくほとんど物質的な作品を作ることがないので、そういうところでの葛藤というのを経験しないでいたけれど、考えてみれば当たり前のことでしかないなあ。ひとは誰しもいつしか死ぬという宿命から逃れることができないから懸命に生きよと説く人がいて、人は人と約束をして未来というのを作り上げとうとして、許すということで過去の責任から逃れるすべを差し出して生きているような気がする。東京にいたらよくわからなかったことかもしれないけれど、とても良く分かるというか納得できることだ。生きる為に活動することがすべてであって、くだらない労働に説得される必要はないということだ。生きるか、死ぬかのギリギリのところで苦し紛れに闘っているんだから、そんなことで時間を使うのは良くないいうのも、至極当然に理解できるし、未来に向かってしか生きることができない僕たちはいつだって隠された接頭語は「行ってきます、さようなら」でしかないような気がする。それを良くみんな本当は理解しているから、映画を見たりして感動なんかしたりしているんだと思う。

チェゲバラがあるインタビューで「あなたにとって革命とは?」と聞かれて「愛だ」と言っていたのを思い出していて、ロマンチズム過ぎるんじゃないかとも思ったこともあったけれど、これを「死について考えることだ」と読み替えるとすごくなっとくできるような気がする。ぼくは最近、愛は死について真剣に考え、行動し、話し合うことなんじゃないかと思う。だから、愛するというは互いの生命に責任を持つことなんじゃないかと思った、だから愛してない人と間に子供を作ってはいけない。そして、ぼくらの人生が常に「行ってきます、さようなら」である限りにおいては、常にぼくらは死に向かって歩いているわけで、ゲバラが兵士になる前は医師だったというのは根源的にゲバラはそれを知っていて、そこに関係しているんじゃないかと思う。だから、怖い時も、痛い時も、愛を感じた時も、同じようように自分の生命に対する死を感じた時にひとは泣くんじゃないだろうかと思う。


多少の問題がなければ本当に感動しながら生きて行くことがもっと困難なんだと思う

3 月 3rd, 2010

写真はなんとかうまく行きそうな感じがしていて、というはOliverという写真家に協力してもらっているからで、なんとか4×5での撮影もできそう。だけど、つくづく思うのはもうデジタル写真が本当に主流なんだなあと思う。当たり前だなんで、何でそんなにフィルムで撮るかと。Oliverもここ数年は4×5フィルムで撮影してなかったと。ぼくはなんでそんなにフィルムを使うかというと、フィルムが高価な為に一枚一枚神経を使うからであって、無駄にシャッターを切らないことがいいなと思っているからであって、デジカメになるとどうしても何度も何度もリセットが簡単で結局なにが撮りたいのか分からなくなることもしばしばある。それが嫌なのだ。だからきちんと、撮るものを設定できれば今日のテクノロジーならもちろんデジカメでも4×5に匹敵するようなものだって頑張ればできるだろう。ヘルシンキに来る前にデジカメの必要性がどうしてもあって、思い切ってSIGMAのDP-1を買った。これは良かったと思っている。というのは、すごく撮り辛い。オートフォーカスの動作がすごく遅い、感度が最低、Rawの保存転送速度が異常に遅い、レンズが単焦点固定で撮りにくい。書き出そうとするといくらでもあるような気がするのだけど、なんでこんなデジカメを買ったかと言うと、このカメラを購入したひとがほとんどそうだと思うけれど、感光部分が普通のコンパクトカメラよりも大きいからであって、なんとなくこれは4×5カメラに似てるなあと思う。コンパクトカメラなのに三脚が必要になる場面が多いと思うのもそのためだ。本当に変なカメラだと思う。気軽にスナップなんて撮れない。その憎たらしさがなんとなく面白いなあと思っている。もちろん苛立つことも多いけれど、問題がたくさんあるほうが付き合い易いってことかもしれない。ぼくはそういう人が好きだし、たぶんそういう人のことばっかり考えているのかもしれない。自分もそういった人のひとりかもしれないなと思うこともある。

いつだって僕は心配されながら動いてるなあと思う。ヘルシンキに来て、君のプロジェクトは問題ばかりで大変だなと皆に言われる。いつもレジデンスのスタッフに心配されている、にやにやしながら、ヨシノリのプロジェクトは大丈夫か?といつも訊かれる。日本に戻ってもたぶんいつもそうだ。展覧会をやろうとしても、大丈夫?大丈夫?って何回も訊かれる。いや大丈夫だと言うしかないのだけれど、その歯痒さのなかでぼくだって本当は大丈夫じゃない部分もあるのかもしれないのだけど、それをどうにか乗り越えて生きてきてなんとかやっていく。だいたい本当に大丈夫じゃなかったらこんなレジデンスでプロポーザルを採用してもらえないと思う。ぼくが思うのは、多少の問題がなければ本当に感動しながら生きて行くことがもっと困難なんだと思う。きっとそうだ。


1ヶ月が過ぎたところ

3 月 1st, 2010

不思議なことに、一人では約束もできないし、自分を許すこともできなから、他人というものが必要になると書いてある本を読んだ。キリスト教的な原罪の感覚をもって「悔い改めます」というのはどうもぼくにはしっくり来ないのだけど、なんだか分かるなあと思った。ああそうか、関係の中にしかそういうものの存在は認められないんだなと思った。というかぼくが考えるには、あらゆるものの同意というものはそういった他者の関係のなかでしかリアリティーがないと思っているから、いまさらびっくりもしなかった。こうやって旅をしていると、頭のなかを揺さぶられるような感覚になることも時々あって、時々自分が何ものかが分からなくなるというか、最初から分からないくせに、分かったつもりでいた感覚が抜けて、余計わけがわからなくなる。それは清々しこともあるのだけど、たいていは心地の悪いこともある。実はもうヘルシンキに滞在して1ヶ月になる、いままでにない貴重な経験をしているような気がとてもしている。というはこんなにじっくり作品のプロジェクトで大変なことも滅多になかったし、それにここに一人こんなに豪華に時間を使えることもなかったから、やや肩すかしを食らうこともあるのだけど、たいていは面白い経験として吸収されていく。かなり遅くなってしまったのだけど、いよいよ来週から具体的にプロジェクトの進行が進み出す。いや、実はこれは予定通りぎりぎりのラインで考えていたことだから、まだ焦ってはない。たぶんこの山場が越えられれば、あとは一気に動くだけだからたぶん大丈夫なんて考えながら、近所の安っぽいピザを食らった。スウェーデンから友人のアーティストが偶然、同じ時期に同じレジデンスに来るということが分かって、おお久しぶり!なんてパーティーがあるもんだから毎晩、曜日に関係なくパーティーがあったからやや呑み過ぎたかもしれないと思った。本当は好きな人に「好きだ」と言って一瞬で一生が終わってしまえれば、それはそれでいいのかもしれないけれど、現代ではそうもいかないのかもしれないと思うと面白い時代であるなあと思わざるを得ない。


たぶん旅をするだけだ

2 月 26th, 2010

小さなアートマガジンの取材があって、今日掲載された雑誌が届いた。愛してるよ、というのはお命頂戴というかあなたの命を預かるわ、ということなんじゃないかとなんとなく思っていて、そうか好きだというこは生命に関わることなのかと思うと急に緊張するというか、僕たちの身の回りの社会だとかそういういった類いのものたちがいつのまにか痛くないような感じがしているというか、苦しみがないというか、健康的過ぎるというか。ぼくはいつだって生命の危機に晒されていて、だからぼくは何だか健康的で放牧的な映画が嫌いだ。そいいった意味でエコとかロハスというものも苦手になっていって、なんでなんだかいつの間にか27歳までになっていて、ぼくだって歳は取りたくないよと言っても誰も許してくれないから、ぼくが勝手に許してあげることにしたい。初めて出会った女の子の最初の言葉が「許す」だったら、どれだけ救われた人生を送れることができるのだろうかと想像することはとてもどきどきすることだし、ぼくはいつもだれもかも何となく許した気持ちになってきた。人生には、いくつかの人の出会いが設定されていて、そこでいくつかの問題が出されてくるのだけど、ぼくはいつもそれを許すことで解決するというのは、やや感情的過ぎるのだろうかと思うこともある。ただ、ひとつだけ気づいた事と言えば、構築的な討論というのはもはや想定することが不可能なんじゃないかと思う節があって、何が言いたいのかというと人生はきっと議論なんてできないということであって、じゃあどうするのかは知らない。たぶん旅をするだけだ。


何でも困った事があったらいつでも連絡ください

2 月 24th, 2010

今日はすごい晴天なのだけど、雪が降っているという不思議な天気。ようやくプロジェクトも慌ただしく動き出してきて、写真の打ち合わせとか照明技師との打ち合わせとか急に1日3件くらいの打ち合わせとかがあって、嬉しく思っている。そこで、なんだかドラえもんの歌が聞きたくなって50回くらいリピートしてみた。深夜スタジオの中でアンアンって言う女の子の声が響いてなんだか変な気分になった。と考えていたらなんだか世界が急に至極シンプルに見えてきて、ああそうかだねえとか勝手に考え出して、朝一番に封筒と絵葉書なんか買いに行ってみた。昨日はバーで数学者の男の子に出会って話していると数学はつまらないから多摩美でメディアアートを勉強したいんだって言うから、オッケーじゃあ僕のカメラのレンズキャップを眼鏡に填めてと言って写真を撮った。

アンパンマンの歌は「そうだ嬉しいんだ」というフレーズがすごく好きになって、そうだ、って言うところのなんとなくそっかーみたいな感覚が面白いなあと思う。アンパンマンの歌詞も浜崎あゆみの歌詞も篠原涼子の歌詞も、すごい似ている気がする。そう考えるとぼくも難しいふりをして生きているだけなんじゃないかとも思うし、今までなんでわざわざ複雑に考えるふりをしてないといけないんだろうかと思い始めた。ヘルシンキで出会ったシニという女の子は来週には東京国際芸術見本市というダンスの芸術祭に招待されて東京に行くと言っていたけれど、彼女はダンスでSonyのAiboを使うらしいけれど、バッテリーチャージャーがどこに行っても見つからないらしい。そんなのsonyに問い合わせればいいじゃんと思ってwebでそれがめちゃくちゃ複雑でなんでか良くわからない電話番号が沢山載っていてどこにかければいいか良くわからない。ようやく見つけた連絡先もaiboのオーナーIDが必要だとか何なにが必要だとか言っていて、どうしてこんなことをしないといけないかと思った。

そう言葉はぼくたちが本当はみんなひとりひとり孤独であるという事を証明する為の装置に過ぎない。だからと言って諦めてはいないけれど、同時にその寂しさは人と人を惹き付けるかもしれない。何でも困った事があったらいつでも連絡ください。


私は愛し合っているラブストーリーを扱う映画に出演している

2 月 23rd, 2010

ヘルシンキに来て本当に良かったと今思ってる。作品のプロジェクトはすごくたくさんの問題を抱えていたので、大幅な変更が必要になってネオンサインの制作設置は叶わなくて、相談の結果バットマンみたいな大きなライトプロジェクターを使ったメッセージを銀行に投射することになった。照明技師のジェニーさんの協力を得てプロジェクトはなんとか動き出して良かった。ヘルシンキ市内にある3つの都市銀行のビルを夜中に占拠します。そして、いま僕にはなんだかいいたいことがたくさんあって、エンディングということを考えていてどうも映画とか演劇とかタイムベースの作品のエンディングというそのもの、どんな結果であれ結論であれどんな手法によって終わるのであっても終わるということそのものがすごい気に食わないというか、すごいずるいなあと思っている。悪意は全くないのだけど、だって人生の終わりは死ぬことでしょ?ってぼくのエンディングは永遠に僕には感知できないし、そんなのずるいよ、と思うというか。勝手に終わって逃げるのかと思ってしまう。いいなあ終われることはと思ったし、終われるってのはハッピーエンドといえるんだなあと思うし、実際に本当にハッピーなのかというとそうじゃなくてまだ戦争とか殺し合いとかなんとかかんとかへんてこりんというのがたくさんあって、当たり前だけどそういうのを抱えて生きて行くというか、エンディングに向かう(エンディングするじゃなくて)というのが人生だなあと思うことがあって、ぼくがやろうとしている芸術というのはそうなくてはならないんじゃいないかと思った。というのは終わってしまうのは娯楽でしかないなあと思うから。

それは、プライベートとパブリックの問題ともおおいに関わってくる問題系であろうとぼくは思う。だって、ぼくのプライベートの時間は死ぬまで逃れるられることは無いけれど、ある一定の想定しえるパブリックというのは役目を終了することが(一次的だけど)終了することが可能であるなと思うし、そういう考えかが今ぼくにとってはとても有益なんじゃないかと思う。今ぼくのなかでは面白いことが起きていて、人間と人生に関する考えかたが少し変わりつつあるなあと思う。それはいつだって、昔からぼくはどこにいたって、何をしていても、何を考えようとも、世界のありとあらゆる出来事と関係がないということを言い切ることはできない、という大前提を考えていたのだけど、まだ甘かったなあと思う。やっぱりそうだ。特に今思っているのは、映画とか演劇とか美術とか、その物自体に実社会とか別の次元を構成しえる架空の事象と現実社会がいかに関わって、それに触れる私たちはいかにそれを信じて生きていくのかというこだと思う。詩もそうだ。愛し合っているラブストーリーを扱う映画に出演している、役者はどんな時間を生きているんだろうか。役者と現実の個人としての人生をどう生き抜くのか、はたしてまたしても「愛している」という現実に告白に使用しうる言葉さえも台詞でしか存在しえないのか、そんな二重の次元がメビウスの環のように、自分の立っている時間や空間によって変化する奇妙な世界で生きているのかもしれないし、それを混同しないほうは異常だとも思う。映画に励まされたとか勇気ずけられたというのも正に、混同している証拠であるし。そのあたり面白いことが起こりそうだ。


人生はもっと罪深いかも

2 月 21st, 2010

案外いま苦しんでいて、というのはアイデアを次から次へと出さないといけない状態になっていて、しかもそれぞれにかなりのクオリティーを要求されていて、いやや期待されていると思えばこんなに嬉しいこともないのだけど、やや生活が乱れ気味で、徹夜してみたり10時間くらい寝てみたり、深夜のヘルシンキを彷徨ったりと大忙しだった気がする。

ここに来て、映画を見たいなあと思い始めたのでヘルシンキの映画館に行くのもいいけれどあまり興味があるのがやっていなくて、何故か崖の上のポニョともののけ姫がやっているのだけど、それはまあいいので、何か無いかなと思っていてもなかったので、中国のサイトで日本の映画全編見れるところがあってそこで見る事にした。で、なんでなのかきっかけは忘れたけれど、市川実日子さんがとんでもなく好きになってしまって、わあなんでこんなに可愛いのかしらと思いながら市川さんが出演してる「Blue」「Lover’s kiss」という映画を見た。偶然なのかなんのかよくわからないのだけど、両方ともの映画で市川さんは同性愛をしていて、なんだか奇妙だなと思ってしまった。もうひとつ「とらばいゆ」という女流棋士の話の映画もあったのだけど、それはネットには無かった。Lovers kissはいいとして、blueは結構面白かったなあと思った。やっぱり映画は罪深いなあと思うし、だって市川さんと個人的に面識もなにも無いのだから、映画の中での彼女がぼくにとっては彼女自身であって…なんども同じこと書いてる気がするな。でもいいんだ。人生はもっと罪深いかも。

で、まあそんなことがあったりしていて、関係ないのだけど、今ぼくのスタジオのあるkaapeliという施設でFinish Metal Expoというイベントがやっていて、メタルッコ(ヘビメタとか好きな子)が集まっていて面白い!おじさんから中学生くらいの女子まですごい沢山のひと…昨日はなんか事件があって警察が来てた。警官の足下に若者が倒れてた…もちろん雪のなかに埋もれてた!まあいろんな輩がいるんだと思う、むかつく奴からなんでこんなに優しいのって思う子まで。

来週はもう2月の最終週になってしまうなあとやや冷や汗を書きつつ、なんとかヘルシンキのプロジェクトも動き出したから、気分は上々です。今日はかなり吹雪が酷くて顔が痛いぜ。ふい。


市川実日子を大好きになった

2 月 19th, 2010

向かいのスタジオのユリアンという女の子のプレゼンテーションが夕方からあって、それに合わせてワインなんか飲み始めたからいきなり酔っぱらってしまった。ユリアンはダンスの振り付けのディスカッションをしていたけれど、どうもぼくは府に落ちないので、2時間くらい見てから途中で抜けてUFFという古着屋さんへ言った。今日は全品2ユーロなので、狂ったようにみんな服を買いまくっている。12着買っても20ユーロなのである。まさに阿鼻叫喚の店内は服が乱れ放題で、どこの繊維工場に来たかしらと思うような状態で床にたくさん服が溢れんばかりであって面白かった。ぼくは女性もののブラウスのようなちょっと70年代風のシャツを一枚買った。なんとなくだけれど、違った環境に来ると違ったことがしたくなるので、今日は友人に少しだけ手紙を書いてみることにして洒落てポストカードなんか買ってみたりして、郵便局まで出しに行くのだけれど、なんとまあ奇麗な夕日なのかしらとふと思うような情景で雪に反射した夕日がまたなんとも見たこともない感じで面白かった。

帰ってきてらは、HIAPのオフィスからトーマスがちょっとちょっとーって呼んでくるので、行ってみると。今度の3月にスオメリンナ島であるパフォーマンスイベントに出ないかと言われ、ああいいね!ってなるんだけど、やや久しぶりなのでどうかなあって微妙な感じもしてるなあと思ったけれど、やってみようと言う事で快諾してみた。トーマス君とヴィレム君というのがオーガナイザーで両方共に会ったことがあるし、信頼が置ける人柄なので大丈夫かなと思った。とまあいろいろあって、さあ自分のプロジェクトはというとこれまた難航していて、結局のところ地下鉄カンピ駅からの許可はもらうことができなくて、どうしようもないので、別のプロジェクトも考えないといけないかもよ!とキュレーターのマリタ君に言われたいたけれど、マリタ君もマリタ君でぼくのプロジェクトの責任の一端を担っているので気がきではなくて、考え抜いた挙げ句、いいアイデアがある!ということで、聞いてみるとヘルシンキの地元のアーティストで夜中に大型のライトを使うアーティストがいるから、彼らとコラボレーションして旧銀行ビルに深夜投影するプロジェクトにしたらということになって、そうかそれじゃあ許可はいらないねえ!という感じで何とか突破口が見えてきたような、やや時間がなくなってしまったぞ!という感じでヤンキー風に暴れたい気分を押さえて、承諾したのだった。

で、ふうと一息ついたら、映画でも見たくなってきて。なんとなく、blueという映画を見た。そこで前から好きだった市川実日子が可愛すぎて、映画の中のことなのに現実みたいに、ああ可哀想だとか可愛いね!とか思ったりして一喜一憂しながら見ていて。映画の中の役なのに、市川実日子というのはなんて可愛い子んだろうと思い始めて、ぼくのタイプど真ん中だなあとか思い始めて、最終的にはMacの壁紙とかにも採用したりして、かなり熱が上がっている。目の中に入れても痛くないといいたいというのはこの事かと思うような体験をして嬉しかった。やや不機嫌ぽい彼女の顔と立ち振る舞い(映画の中の役柄と本人の個人的な性格などをごちゃ混ぜにして考えている)を見ていると、なんて素敵な人なんだと思った。映画は罪深いなあとも思った。とまあ何でこんなことをしているのかよくわからない状態になってきたのだけど、それはそれで、面白くていい。


17日目

2 月 18th, 2010

昨日、今日はいくつものギャラリーでオープニングがあって、ひょいひょい幾つかのギャラリーをまわったりして時間が過ぎた。ぼくの滞在しているHIAPでもふたつのオープニングがあって、ひとつはソジュン君というソウルから来たアーティストで、ヤノベケンジ風にモンスターガジェットのドローイングとか大きな彫刻を作っているらしい。最初話した時に、アムレットの意味が全く分からなくてなんども、しつこく聞いてようやく分かった。昨日韓国の彼女とskypeで喧嘩したらしい。

もうひとつのオープニングはヘルシンキのアーティストでアメリカの昔の建築様式を題材にいろいろなケーススタディーを展開している作家なんだけれど、なぜかオープニングでコーラを霧噴射(?)させるインスタレーションを作ってた。でも1時間に30秒しか噴射しないとか言ってるうちにふらふらしてて、見逃した。ってもっとやって欲しいなと思った。同じくHIAPにレジデンスにきてる奥さんが日本人でオーストラリアの作家が江頭2:50分のファンだとか言って面白かった。そのうちにぼくはすごく酔っぱらってしまった、気づいたら結構もう夜になっていた。

スーパーで買ったシャンプーが可愛いすぎると思う。北欧オシャレって言われても納得だなあと思ってしまった。しかもこれが1ユーロくらいで安い。物価は高いけれど、なんとなくどこに行けば安いものが手に入るのか分かるようになってきて面白い。UFFという日本で言うところの全国展開してる古着屋(?)というか救世軍バザーと言ったほうがいいかもしれない、そこのバザーが結構過激で、明日は全品3ユーロとか明後日は全品2ユーロとか明々後日は全品1ユーロっていうセールをやっていて。思わずイタリア製の謎のセーターとシャツとマフラーと上履き(?)を買っても8ユーロだった。

実はネオンを設置するための許可は結局得られずに、ヘルシンキのでプロジェクトが難航していてかなり軌道変更をしているのだけど、いろいろキュレータとの打ち合わせの結果、ヘルシンキのアーティストとのコラボレーションで旧銀行のおんぼろビルに深夜ライトで書いた文字を投射する予定になった。オリジナルコンセプトを保ちつつなんとかプラン変更できそう。ふう。

街が狭いので町中でよく知り合いにあう。


問題の作り方

2 月 12th, 2010

結局はみんな良くわかっているんだと思う。PCにかじりついてmixiやfacebookやったりして、ああよかったねえ。なんて言っているだけで終わっては行けないってことが。美術館に行って作品を見て楽しかったね、とか演劇を見て感動したとかじゃ。問題の最終目的地はいつだって、現実に向かっていかないとどうしようもないってことが。現実は不公平な理由で戦争や争いがあったり、死んでいくひとがいたり、家がないのにどうしようもなくて毎日お風呂に入れないで何もできないで寂しがっているひとがいて、それが問題であるってことが皆、明白な問題だってことが分かっているとぼくは思う。だからぼくがやっている活動だってこれをお米やパンに変えてお腹をいっぱいにはできないけれど、どうににかその為のエネルギ−に変えることができるはずだ。現実にどう切り込んでいけるかってことが一番大切なのに、どうも一部のみんなで楽しくやりましたということが良く起こっているようでぼくは悲しいというか寂しいというかなんとなくつまらないというか、そんな感じのことを良く思っていることもある。だから美術館とかギャラリーのオープニングとかでワインとか美味しいものをたらふく食べてああ満足だわ!って思っているのはそれはそれで楽しいけれど、どこか心の底でこれでいいのかなあって思っていたりもしているのだけど、それがうまいことバランス取るってことが一番のアーティストの仕事なのかもしれない、だから両方やればいいってことなんだけど、結構難しい。ぼくの作品のことを良くも悪くも政治的だとか言うひといるのだけど、それは当たり前のことで生きるってことは、現実の社会の問題とどうやって折り合いを付けていきていくかってことの闘いのことなんだから、トートロジーである。

最終的には美術はダミーであって嘘であるんだけど、その嘘をいかに利用してみんなの目前に迫っている現実の問題に関わって変えていけるかどうかってことなんだと思う。だけど、こうやって海外へ何度かやってきていると常々思うのだけど、やっぱり日本は自力で市民革命を経験していないというか独立を勝ち取っていないといか、それは常に天から授けられたものというか、それは最初から与えられたごとくに存在しているように感じられて、どこの国に行っても隣国との争いやアイデンティティーが問題となるのだけど、日本は最初からしかも日本人みなで共有されていることが前提として存在してしまっていることあるんじゃないかなあと良く思う。ぼくはそれの裂け目の中でどうにかこうにか、共有しきれない部分をもって作品を作っているのかもしれないなあと思う。

面白い人生になってきた。


地獄のように怖く、死のように厳しく、恋のように甘くなければならない!

2 月 9th, 2010

昨日は凍った海の上を歩いて小島まで行った。夏はもちろん、ボートで行かないといけないのだけど、真冬はこうやって海が凍るのでみんな歩いていける。さて、スタジオではマインドマップドローイングの準備とフィンランド語の翻訳をしながら書き込んだりしている。これも作品となればいいかなとは思っているのだけど、まだまだ作品化は遠いかなあと。いつ完成するのかしらって。で、まだネオンサインの許可もおりてないのに展覧会の日時だけ決まってしまった。3/31-4/18にHIAPギャラリーで個展なんだけど、はてまたどうなることやら?誰に話をしても、ああ大変なプロジェクトやってるねえ!グットラック!って言われるてるけれど、がんばんなきゃなあ。展覧会後の作品輸送費なんかも調べないと。結構いい値段しそう…まあプロジェクトの予算に組み込んでるからある程度出してくれるはずだけどね。最初の滑り出しとしてはいかがなものだろうか。

でもでも、実はこうしているうちにも東京の個展のアイデアを出していかないといけないっていう裏の事情もあって、あんありのんびりもしていられないんだ…みんなスキーに行こうよ〜!とかエストニアに遊びにいこうよ〜!とか行ってるけれど…ね!いいもん!でもフィンランドの子はみんな可愛いなあ。

芸術とは地獄のように怖く、死のように厳しく、恋のように甘くなければならない!ってトルコの諺をもじりました。そうそう、今回フィンランドに招待してくれたHIAPですが、500個のアプリケーションからぼくを選んでくれたそうです。とんでもないハイコンペティションだったんですね…


メトロKammpi駅の魔術

2 月 6th, 2010

こんばんは。あっという間に平日5日間が終わってしまって、もう週末の土曜日です。現実的にはまだ5日目なのだけど、ああもう5日も消化してしまったんだなと思う。ネオンサインのプロジェクトは問題なく動いているというよりは、思った通り問題だらけで何もかもがみんなにとっても挑戦であるから、すごい時間がかかってしまう。今回はオリジナルアイデアでは、銀行の屋上へ設置する案を提出していたのだが、キュレーターが銀行へ交渉した末に全部断られてしまった。これはどうにもならないので、やや変更プランを考えた末に、中央地下鉄のKammpi駅のエントランス上部に設置しようと話がまとまった。駅は公共機関なのでヘルシンキ市の管轄で、銀行よりはやや話がしやすいし、いま滞在しているHIAPもヘルシンキ市の芸術カウンシルと繋がっているので、市経由で話をすれば可能性が高まるという計算だ。そして、この場所は、駅周辺に国会議事堂や現代美術館があるエリアなので、それに向けてのメッセージになり得るということだ。

その他にも予備案をいくつかヘルシンキ大学の屋上に設置するとかいろいろ話があったけれど、いまいちなので、それはまだ考えずにおいたほうが良いかなと思っている。今月一杯で解決しないと3月になっても何もできなかったら困るので、よろしくたのもう。

ヘルシンキ現地の人に話をしてもそんな話始めて聞いたよ!ってびっくりされるから。実現したら面白いだろうなあって期待してる。魔法だ。設置できたら、この駅前で深夜のレセプションパーティーします。


ヘルシンキに到着しました

2 月 3rd, 2010

とりあえずヘルシンキのHIAPのスタジオまで到着しました。すごくひろい研究所みたいなスタジオでなんの不自由もなく過ごせそう!トラムと電車と地下鉄の定期券を購入するのに、一ヶ月70ユーロもしたので、買うかどうか迷ったけれど、確実に定期のほうが安いと思ったので購入した。あとでお金がなくなるのはいやだもんね。それと携帯電話を借りてプリペイドで払う事になったけれど、さすがノキアの母国なのか、コンビニで番号を伝えてお金を払うだけで、何の紙も無しに携帯が使えるようになった。すごーいテクノロジーだなあと思った。というか日本でも当たり前なのかもしれないけれど。そんなこんなで1日が過ぎ去ってしまった。小さなことで時間がっかってしまうので、やれやれだなあと思うけれど、とにかく少しづづここに2ヶ月滞在する準備が整って来た感じ。明日はキュレーターとプロジェクトミーティングがあって、あれこれどうするのか決めないといけないので、ややもしていられない。フィンランド人は挨拶で、モイモイ!って言っているのでぼくも真似してモイモイ!っていうとそのあと、あたりまえにフィンランド語でベラベラ喋ってくる。それが面白くて。みんなの顔がムーミンみたいに見える。


明日はヘルシンキまで行きます

1 月 31st, 2010

今日の朝は寝坊したのだけど、7時には野方駅まで行って、トムヤムクンとプリントとパンナコッタとタイのチャイを振る舞う朝食会をやってのんびり。ずっと座っていると足下が結構冷え込んで寒かったけれど、毎日ごはんを食べるって不思議だなあと思うと同時に毎日これと同じような食事をいつもどこかでやっているんだなあと思う。なんだったらみんなで一緒に食べたらどうだろうと思うから、朝食会というのをやっているし、これはぼくにとっては芸術ではないのだけど、そんなこんなはどうでもいいと思っていて、シャキッとできる1日を作るための工夫かもしれない。ただそれは作品ではないんだなというところだ。こういうのをやることで再会できるひともいるし、こうゆうのをやって知り合えるひともいるし、それはそれで人生の大事なきっかけだ。友人の会社同僚は欠かさず参加していてちゃんときっかけを活用してくれているひともいるのだ。

それでまあ今日は荷物のパッキングをしないと行けないと思って、帰宅してから洗濯と買い忘れた8GBのSDカードとフイルムを少々購入しに新宿まで一度出て、戻ってきて今日は鮭を焼いた。とりあえず、食べられた鮭は明日僕の胃の中にしまっておいてヘルシンキまで持っていく。移動日の明日は何度経験しても結構きもちの良いものだ。ただ明日はこの気温から30℃くらい下がる。気を抜かないように。

飛行機に乗り遅れたこともあるので、できれば早めに行って空港でそばを食べたい!さて2ヶ月間どうなるんでしょうかと自分でもわくわくどきどきどきんちゃん。


Puffyのこと

1 月 21st, 2010

風呂に入ってワインを飲んだ。そんで、メールを打って(撃って)、まとまらない書類をまとめた。最近はずっとPuffyばっかり聞いているので、家にいる時は同じ曲をリピートしているんだけど、友達が来た時になんで同じ曲をこんなにリピートするのかと笑われたけれど、全然ぼくには笑えない。だって今日だってPuffyは歌っているし、ぼくは音楽を聞いているんだけど、それだけどんだけがんばっても同じだけの時間は経験できないと思うといまで経ってもどれだけリピートしてもPuffyには追いつけない。よく見ていると、すごく可愛く見ててきて(昔から可愛いと思っていたけど)なんでこんなに可愛らしいのかなあと思ってきた。彼女たちのプロモーション映像をみながら、ああここの仕草はなんだか無意識で可愛らしいなあとか思えてくる、そうだ。彼女たちはまだ34歳と36歳なのだけど、ぼくの記憶のなかで止ってしまっているので、その彼女たちに会う為にはyoutubeへ行けばいいし、そこではだれだけリピートしても歳も取らない。本当のところはそれではいけないのだけど、それに甘んじてしまえる環境というのが、ようやく問題だなのではないかと思うこともあって、そんなら死に怯えて生きていればいいのかというと、そうでもなくて。問題なのは何事も痛くないようにできていることなんじゃないかと思う。人間から痛い感覚がなくなってしまったら、いつのまにか誰にも知られずに自分さえも気づかずに死んでしまうんじゃないか。そんなことをむしゃくしゃ考えながら紅茶を飲むとあと10日でヘルシンキなのだと思う。

新しい作品の構想をまとまりきらずにも書類をまとめつつ、⌘Sでセーブしたらなんだか気分が楽になる。ショートカットってなんだ。あれよあれよと今週はすぎそうなのだけど、思う存分やれる人生を用意できればいいなと思っている。最近やや何が何だか(?)物事がすべて相対的にしか見えない世界だなあと思うような悲観的な気分に陥ることがあるのだけど、それもこれでもみんなぼくのせいだ。いくぜ

だって今日だってPuffyは歌っているはずだ


世界は想像以上だ

1 月 8th, 2010

オリンパスのCMで何度も言っているけれど、世界は想像以上だって言うフレーズがどうも頭が離れないでむしゃむしゃしている。なんだかそうなんだか良く分からないのだけど、いつだって世界は想像以上でいつも知らないことはは想像以下だってことなんだろうと思う。そう(気づいていない)世界はいつも想像以上なんだ。いつか行ったアルゼンチンの絶景もノルウェーの極寒の海もすごかったけれど、あれは想像以上じゃなかったし、それはとてつもなくすごい景色だったけれど、ぼくはそこにそれがあることを知っていたのだ。知っていることが想像以上だってことに人は驚くのかもしれないなあと思うのだ。来月行くヘルシンキだっておそらく海が凍っていてすごいだろうけれど、それは想像以上を越えることがないけれど、たぶん身の回りにある(あったこと)ことが想像以上だってことに気づいた瞬間が一番想像以上なのかもしれないなあと思う。

なんだか、ちょっと面白くなってきたぞ。灯台下暗しの灯台が一番想像以上なんだろうな。そんなことを思い知らされた1日だったということです。まあということで、1月末までアーティストブックのセールをしています。お気軽にどうぞ!

残り僅かなので「台無しの共同体」2010年便乗セール
通常2500円+送料のところを、2010年1月末までにご購入頂いた場合にのみ
2010円(商品+送料込み)で販売致します。
(日本国内のみのセールです。取り扱い店ではセール実施しておりません。)

残り数冊となっておりますので、お早めにお願いいたします。
ご購入希望の方は、お名前、ご住所、お電話番号をお伝えください。
お支払いは銀行振込のみとなっております。手数料の負担をお願いしております。

http://niwa-staff.org/blog/?cat=8

お問い合わせ:niwa@niwa-staff.org


今、椅子の上で正座してる

1 月 2nd, 2010

今、椅子の上で正座してる。今年も始まったばかりだけど、結構頭が痛い。やっかいだなあと思うんだけど、原因ははっきりしていて、やや変な感じ。ヘルシンキに行くためにどうにもこうにもならない事ばっかりで、もううんざりって思う。2ヶ月も日本に居ないのに家賃払わないといけなかったり、その間の収入もないわけであああ困ったなあと思うけれど、しょうがないやあとしてこの機会を逃すわけにもいかないから行くんだけど(喜んで)、実際結構厳しいのだったりして、いろいろな技を駆使してなんとか乗り越えようとしているから、頭が痛い。ああなんなのよって言うのは簡単だけど、なんとかしないと行けないからあと一ヶ月もないのだから、やれることは何でもやろうと思って勢い元旦から助成金の申請書類を作ったり、確定申告の書類を作ったりしてボロボロの正月を迎えることになっていて、それもいいね!って思っているのは、ぼくはやっぱり天の邪鬼かもしれない。悲しいかな、帰国するまで気は抜けないんだ、と思う反面変な人生だなと思う。

もう始まっているぜ!