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エッセイ|終焉のこと

木曜日, 7 月 26th, 2012

すでに思考も論理もあったものか、てにをはも何もない。残されたは、非常に虚ろな感情だけだったし、それがどうしたこうしたも何もない。クドクドしいが何もない、ただそんな状態で虚無感を漂わせているのは、根拠がないわけではないがここには書かない。

ということで少し別のことを書く。しつこくも何度も死があーだこーだ書いていたように思うけれど、それが一体どういうことなのか、まだ射止めれずいる。当然ながら自分の死を目前に捉えているわけではないので、そういった雲を掴むような話をずっとしているのかもしれない。ただ予感として、直感として、すべての人類が例外なしに個人史の上では、死に向かっていきていかなければ、いけないというその事実だけで、ぼくは身震いような感動を覚える。それは、いかに生きるのかという問いに等しい。あらゆる問題の根源と言っても、そう間違ってもいないように思う。ここでは論理的展開はさておいて、どうしてそのような考えに至っているのか、どうして死を目前に控えているわけでもない人がそんなことを言えるのか。

間違いなく死は個人における終焉だ。人生の終わりだ。死ねば何もかもが無くなり、無効になる。ぼくは無神論者であるし、輪廻転生も信じていない。もっとも、もし輪廻転生があったとしてもぼくの考えには何も影響はない。いつか終わることが定めらているにも関わらず生きることは、宿命である。そこには理論や説明はない。もし回答を用意しなければいけないのならば、すぐに自己矛盾する。当たり前だ、生まれたい!という意志で生まれてきたのではなかった。これは消極的な考えでない、人は積極的に生きるためには、この事実をまず受け入れるべきであろうし、すべての価値はそこから何もかもが後天的に、後追い的にやってくる。ということだ。

ということはどういうとか。ぼくが先にこの世界にいたのだ。すべての価値以前にぼくがはじめに存在した、すべての価値から人の存在は優先されている。もちろん、時間軸で語るのならば、ぼくの生まれる以前から存在した価値はあるが、その価値はすべての人間に先行したわけではない、誰かの後を追っているのだ。ここでひとつ重要なのは、ぼくよりもこの世界に存在した人々だ。ぼくらは、江戸時代の女性と恋に落ちることは不可能であるし、西暦2800年に生まれてくる人とご飯を食べにいくことは、現状不可能だ。つまり、ぼくらは存在的にはあらゆる価値から先行して存在しているにも関わらず、存在はある100年足らずの時空に閉じ込められている。

後世に何か残そうとする人々がいる。子供の世界に何か残そうではないかとか、タイムカプセルを埋めようとか、そんな些細な出来心で人々は時空を越えてコンタクトを取ろうとすることがある。このような話を聞くたびにぼくは、なんとなく人類の儚さと無謀さを感じ取らずにはいられないし、定められた人類ひとりひとりの孤独感を歌いたくもなる。もっとも、誰もが平等に死ぬから良いのであって、もし仮にも人類の50%だけが死ぬ運命で、残りの50%が永久に生き残る運命に生まれていたら、事情は全く違うであろう。いっきにアウシュビッツばりの悪夢になりかねない。しかし、事実上平等に死ぬ。そこがいいのだと思う。平等に終焉が定められているというのは、唯一人間同士が尊厳を保つための砦として、どこか優しさを感じてしまう。

終焉とは何か。そんな問題にそう簡単に答えることはできないし、名言っぽいことを吐き出したところで何にもならない。しかし、終焉というイベントは人間にどうしても、必要なことだとしか思えない。しかし、終焉は悲しくも寂しいものである。それがぼくが生きようとする動機だ。

エッセイ|歴史を持つ者だけが未来に行ける

土曜日, 7 月 14th, 2012

歴史を考えることは、一度歴史の断絶を検討する必要がある。

ぼくは、その朝速報値「−25℃」のモスクワで、美術館での展覧会の準備をしていた。窓からは、凍り付いたモスクワ川があった、Yahooニュースによればその日の気温が平均で−25℃とあった。確かに寒い。ぼくはダウンジャケットに厚いブーツでモスクワ川の側まで歩いて出かけた。呼吸をするのさえ、非常に困難を伴うので、それなりの作法があるように思われた。なるべく肺に凍った空気を入れずに口だけで呼吸をする。それはモスクワで一ヶ月暮らすための、サバイバル術だった。この日、ぼくはこの速報値をTwitterに書き込み、日本に暮らす友人たちに伝達した。だが、極寒の地で暮らす人を除けば、ほぼ想像できないことであろう。そこには「現実で経験したことがないことは想像できない」という大きな断絶がある。ただし、それが「寒さの範疇」である限りは、情報が伝えることが可能で、受けるとも可能だ。ぼくらの時代は多くの場合、現実よりも情報の先にやってくる。それは、歴史の定理を破壊する。ぼくらは、見たり経験した過去の物事を、どのように記述し、記録し、残していくかという使命において、その逆行をいく形で生きている。いつまで経っても、その−25℃は誰の歴史に刻まれることはないのだ。

ぼくはこれが、無根拠に起こっているのではないと思う。ぼくらの幸福論は、情報に一時的に肉を与え、生命を宿したかのように見せかけて、経済論理に中に埋没させられる。このような社会の中では、先に情報がやってきて当然のことなのである。

ただし、ぼくらは根源的には歴史が未来への架け橋を作ることを知っている。多くの人が恋愛に未来を見いだすのと同様、家族や子供を産むことは未来を作り出す。それと同時に、家族は歴史になる。そうでない限り、個人史において、歴史など作る出すことは不可能なのだ。それは、きっと多くの人が了解することだろうし、ひとりでは何の歴史も作り出すことが出来ない虚無感を感じ取ることで裏付けされるだろう。

ある友人が失恋で「すべての終わり」を感じたと言う。ぼくはそのまま、それが「歴史の終焉」だと思った。ただし、それは終焉であろうとも、敗北ではなかった。歴史を作る出そうとするヒトのエネルギ−は常に未来に向かうが、その道が閉ざされた時の「未来」とは何か?その手がかりは、ぼくらが日々、手にしている「情報」と「過去」の中にある。

情報がいつまで経っても、どれだけ肉付けしたとしても、どれだけ魅力的に見えたとしても歴史を形成することは不可能だ。歴史とは、「過去をいかに語るか」という生産的作業であって、実際のところという言葉はほぼ役にたたない。寺山修司は、映画「田園に死す」で自分の過去を都合よく書き換えようとする際にも、母を殺せない自分とは誰か?と説いた。いかに都合よく語り出そうとしようとも、無視出来ない自分と他人の関係を見つけ出した時に初めて、歴史を語ることができる。

酩酊プロ

水曜日, 6 月 27th, 2012

否、やっぱり辞めてしまおうか、という何の根拠もないような感じを勝手に受け取っていても、結局はどうにか進まないといけないのというのが人生の掟なので、それに抗うことは自殺しかない。そういうことはきっとまだ僕にはできないし、そうするつもりは全くこれっぽっちもないけれど、あまりにも残酷な世界の中でどうにか楽し(そうな)い生活を自分自身で演出するためには、否、構築するといったほうがいい、辞めてはいけない。そんなことは20年以上前から知っているし、小学校に入った時点でもう全然知っていたはずだ。それなのに、何故いまさらそんなことで考え直すことがあろうことか、なんて言うのは幼稚なのではなくて、大人なのだ。プロフェッショナルという言葉をぼくは究極には信じていない、寧ろその感覚を否定しうるのが本来のプロであるかもしれない。プロはいつ迄たっても根源的には、赤子のままでいるということだ。そして、それを肯定するということだ。まことに、ぼくの考えていることは世間のプロフェッショナリズムとは全く逆方向の可能性を謳っていると思われるだろうが、そうだよ。

神様の結婚

水曜日, 6 月 27th, 2012

いま、何を言っていいのか分からない。何を言うべきか、それが何も分からない。やることはいくらでもでもある。締切もある。いや、山程あるのかもしれない、そう思い込んでいたほうがいい。いや、未来は何もかもある決断に委ねられているに違いない、そうだ、何もかも未来は小さな決断に運命づけられている。反原発抗議も佳境を迎えるかもしれない今、その後のことを考えていてどうしようもない。ただただ何らかの予感だけを夢見ながら、あせくさしているのだ。君の未来はどこで何をしている誰かさんなのだ。youtubeで流れてくる余りにも洗礼された音楽がどうしようもなく醜く見える。30歳になってようやく小汚いシャツで街を歩いていてもいいじゃないかと正直に思えるようになったら、なんといいのだろうと思うけれど、ぼくも心のどこかでいやズボンのチャックを開けたままで歩くのはどうなんだろうかと思う微妙な感覚を持ち合わせているから、どうしようもない。革命家じゃない。最後まで小市民なのだ、そういうことは本当はどうでもいい、最後の結論は死んでも分からないかもしれないけれど、29歳の最後の夏というのは、そんな小さな問題をくよくよ考える為に用意されていたのではない、きっとぼくらが生まれる前からぼくがこんな事で悩み苦しむことは簡単に想定できたに違いない。違う。そういうことじゃない、もっと残酷な恋愛だとか結婚だとか至極当たり前のことでもっと悩むべきなのかもしれない。30歳を目の前にして、ときどきやっぱりもしかするとぼくは一生独身かもしれないなという、どうでもいい悲しみを思い浮かべることがあるくせに、友人と話していて同じようなことを友人が言うと「そんなことはない、大丈夫だよ」なんていう身勝手な助言なんかをしたりする、そういう自分が酷くゴミみたいだ。いや、そういうことはある程度片付いているはずだ、大丈夫。そう思い聞かせてきたはずだ、今現在でも大丈夫だ、きっと大丈夫だというある種の神話を自分で形成してきた。ただ、そのタカをくくった思い込みがどれだけ強靭なモノだろうとも、ある瞬間に脆くも崩れ去る時がある。他人というのは、神様だ。自分以外の人はみんな神様なんだ。そいうことを結論にはしたくないと思い込む人格を自分のなかに隠しもっているかもしれないが、まだまだぼくも29歳。言葉の槍が飛んできた時に、どうしても返せない時に、そう思ってしまうことがあるし、他人が何を思うか、何と言われるか、何と思われるか、何と受け止められるのか、そんなことが人生に軸になっているようにも思えてならない。きっとそれが本当に分かるまでは、結婚なんてしてはいけないのかもしれない。否、そうでもなくては、結婚しても失敗してしまう。否、結婚しているひとを馬鹿にしているんじゃない。結婚というものが、どこか厳かに決定されるものだとどうにか信じ込みたいだけなのかもしれないけれど、そうでもしなくじゃ精神をどうやって正常に保っていられようか。

ベトナム

木曜日, 6 月 7th, 2012

でタクシードライバーとのコラボレーションを計画しているが、なかなか良案が出ない。

♥自己破壊♥

水曜日, 6 月 6th, 2012

結論ではないが、ほとんどの思考というのは言語で行うのではないかと考えれば、思考を変えたければ言語の使い方を意図的に変えてしまえばいいのではないかと思った。たとえば、すべての文末に♥マークを付けることにしようとすれば、すべてが一気に軽く見えてしまうのではないかと、ということはその言語の使い方に自分の思考が引き摺られているのではないかと。間違いはなく、きっとその小さなアクセントによっても文章の雰囲気が変わってくるので、雰囲気が思考に与える影響もあるのではないかと思うのだ。自己破壊を導き出せるのではないかと思った。ただここで問題になるのは、人生で本当に♥マークを使わないといけない場面でその威力を発揮できなくなってしまうのは、非常に惜しいことであるので、ぼくはもうこれは辞めることにしたい。

私的講義

金曜日, 6 月 1st, 2012

いま、書籍出版のために文章を書いている、これがいつ書店にならぶのかは全く不明であるというかぼくの頑張り次第なのであろう。とても慣れない作業の連続で参ってしまったというか、これは筋トレが必要なのではないかと思うことが多い。ただし、気をつけないといけないのは、筋トレすれば結果が出るというわけでもないということだ。インタビューを重ねれば重要な事実を突き止められるとか、議論を重ねればいいアイデアが出るなんていうのは、真っ赤な嘘だ。それは思い上がりと言っていい、そういった努力の積み重ねで進む方程式というは、表向きは賛同を得られるだろうけれど、きっとそんなことはない。ひとは生まれながらに不平等に生まれてきて、不平等な運命を背負って、不平等な社会の中で選択を強いられる、それはもう分かり切ったことだ。そんなことで驚く人はいないだろう。ひとだって、それぞれなんとかしようとするんだ、ただ同じ努力や同じトレーニングで、同じように結果を出せるとも限らない。努力しないでも結果だけだす事だって現実的にはあり得る。いや、ぼくが努力を惜しんだり、否定しているわけじゃない、そういったことですべてが決まってくるわけではない、というポイントを確認しようとするだけだ、その宿命的な中で努力の価値もいかようにも変化してくるだろう。ここで、自分以外の他人と触れる時の問題にぶちあたる。いかに、自分とは全くフィールドの違った領域にいる、その人とどうのように何を共有したら良いのか、いや最終的にはできないのかもしれないが、そのできないと分かり切ったところから、いやもしかすると出来るかもしれないという神話的な未知なる想像を重ねることが愛なのかもしれない。いや、どうだろうか、勝手なことを言うとまた可笑しくなりそりそうなので、結論は出さないでおこう。きっと、死ぬまでは悟ったふりをしても無駄だ。きっと現実は非常に、残酷で虚しいと言ったほうが分析的かもしれない、でも四六時中分析をやっていればいいかと言うとそうじゃない。残酷で虚しいからどうするんだと考えることだ。今日、読んでいた本のなかで、人間の生存権と動物の生存権の話を読んだ。それによれば、人間はすべての個体の生存権を認めないといけないが、動物にそれを適用すれば大変なことになる、全員ベジタリアンになって、捕鯨禁止を叫んで、動物実験反対を叫んで、害虫駆除反対を叫ばなければいけない。しかも、それが過剰に進めば高等生物と下等生物へ選別されていく、いわば人間様が活かしておく動物を選ぶようになる。という。ということは、現状われわれ人類は、動物を殺生し喰うことを認めるが、種としての動物や自然の保存を求めないといけないとある。つまり、われわれは動物を殺すのだ、見ようによれば虚しいかもしれないが、それが人間のやることだ、という二重のレイヤーがほとんど重なることなく並行してしまう。そこにいくらかの指針を与えることが倫理学であるかもしれない、結論なき現実に決断をするのが愛なのかもしれない。なんてね。

サバイバルリサーチ

月曜日, 5 月 21st, 2012

歴史なんて気にしてられないわ、タイミングなんてどうでもいいのよ、なんて言うのはちょっと傲慢だろうかと考えてしまうときがあるのだけど、いや早過ぎる、いやちょうどいいという答えのないような問題に結論しなくてはいけないことばっかりでもううんざりだわなんて言うのは、もう手遅れ。まあ仕方がないので、その前に先手必勝ということで、なんでもいいからやらんといけないのだ、というのはこの社会の掟なのかもしれないけれど、それをみすみす見逃すにはいけないぞなんて意識高くいつも生きてられないわ、なんていうのも人の本音かもしれない。ただぼくらは、まだまだこれからの未来の為に先人切って社会の前衛として、これからもまた死ぬまでは、そういう試練を課せられたと思い込むのが、幸せだろう。

精神

水曜日, 5 月 16th, 2012

あの人誰ですか、この人誰ですか。そんな質問には答えられないというか、その質問に答えがない。誰でもないというか、名前しかない、それで誰という質問に答えられたものか。と思っていたら、ぼくもようやく30歳になってしまう。今年の秋頃の話なのだけど、30歳になる。30歳の人間になってしまう。非常に感慨深いというか、当たり前だけど、小学生頃は30歳に自分がなるなんていうのは、ほぼ想像していない。そういう細かな断絶の中でしか想像できないタームのなかで生きるのだ。そうだよ、大きさ(時間の幅も大きさと言う)が問題なんだ、遠距離恋愛でも歴史でもその当事者との距離が大事だし、時間だって本当はみんなに平等にあるんじゃなくて、存在している次元によって大きさが違うというのはもう既に一般論だろう。そういうことを考えると、ほとんどのものが相対的に自分の大きさと比較しながら、生きているんだなあとという雑な考え。

口にチャック

火曜日, 5 月 15th, 2012

そもそも、言葉は人間のためにしか存在していない。当たり前だけども、人間が言葉を作った。なので、非常に都合がいいというか、都合のいい言葉というのがあるけれど、そもそも言葉自体の存在が都合のいいだったのということを忘れるなと言われている気分だ。だとしたら、すべての言語による思考なんてどうも自分に都合のいいものじゃないか、おかしな事言ってるじゃねえよと言われても反論できないでいる。どうもそういうことを考えると神秘的な方向になってしまうのかもしれないが、そもそ神秘的は何なのだろうか。そいう次元以外のことを考えるというのは、非常に困難である。

正しい解答だ

月曜日, 5 月 14th, 2012

人間はいつから忙しくなったのか。そんなことは知らん。たいていの場合は、それは言い訳という文句の為に作られた言葉だとしか思えない。真に忙しい人なぞいるものか、なんて言うと多くの反感を買いそうだけれども、そう思うから、そういうことにしておく。加えて多くの場合は、忙しいと言う為に忙しく仕向けているに過ぎないこともあって、人生が本当に忙しいなら、そもそも生きているということはどういうことか、面白くなりそうだ。忙しいとは、お前には構っている暇はないという宣言であって、別に何もする時間がないという意味ではない。つまり、やることは非常にたくさんあるのだ。「何もする時間がない」言い方自体が、自己矛盾なのであって、何もする時間が本当になければ、そもそも生きていないのだ。時間の中にいないのだ、それは既に死んでいるというか、産まれてもいない。ということを考えれば、言い訳として忙しいということはきっと、ひどく失礼で無礼な行為なのかもしれないし、思い返してみればひどく失礼をしたい時にそういうことを人に言っていたのかもしれないと反省した。ということは、正解は、いつだって非常に暇であると言わないといけない。やることがあり過ぎて、時間があり過ぎるというのが正しい解答だ。

腐った玄関を抉じ開けろ

月曜日, 5 月 14th, 2012

実は、この頃は純粋に作品を作ること以外にも、本を書こうとしていたりしているのだけど、これがどうもうまくいかん。というか慣れない作業でどうやったらいいのかあまり実感がないというのが正確なのかもしれないし、集中力もその都度変化してしまうので、書くのが結構大変。でも果敢に挑戦するしかないと思ってやろうとはしているのだけど、これまた違う作業をしてしまったりしていて、肝心の文章が点でバラバラの方向で進むのかしら。なんて思うこともよくあって、まあそれはそれでよかろう。と思うことにしないと、自分自分を苦しめることにしかならんぞ、とも思うがやらないといけない時は、やらねばならん。そうなのだ。いつだって、やらねばならん時という判断がどうも胡散臭いというか、それはいつなのだと思うことも良くあるけれど、人生いつだってそうじゃないかという囁きも聴こえるけど、そうしたらどうも色気のない腐った職業人にもなってしまうじゃないかとも思うが、はたしてアーティストはアーティストの外部に出ることは可能なのか。そんな反論はきっと愚問かもしれないので、よしておこう。くだらない人といのは、きっとそうことで24時間ぼくのように頭がいっぱいになってしまうのかもしれないけれど、そうじゃない人がいるものか。心配なのよ、きっといつかロマンティックな人生になるんだと思うながら、腐った玄関を抉じ開けろ。

ゴミ箱

日曜日, 5 月 13th, 2012

Jeniffer Allora & Guillermo Calzadilla tizaというアーティストがLimaで行ったプロジェクトチョークを25フィートに拡大して、政治的な場面などに持っていき路上に放置する。確かにこのプロジェクトは断片的にだけど、どこかで画像を見たり記事をしていたと思うのだけど、よくよく作家の名前を見たら前回のヴェニスビエンナーレで戦車をひっくり返して、そのうえでランナーを走らせるというプロジェクトをやっていたのね。全然これとあれとが、結びつかなかった。しかも、アメリカ代表として出品しているだからもっと気づかない。そろそろチャイムがなるのかな。

22世紀の歩き売り

金曜日, 5 月 11th, 2012

近所のコンビニで店員の教育なのか、店長らしき人がアルバイトが「20%増しくらいの声を出しなさい」と言われていた。ひどく虚しいというか、どうでもいいことにどうしてこんなに情熱が出るのだろうかと不思議で溜まらないというか、その人は別段声が小さいというわけでも何でもなくて、ただ大きい声を出せばいいわけじゃないのは、誰でも分かっているのだけど、雇われた身分、そんなことは言えないので、黙って(いや違うけれど)声を出すように訓練されていた。ぼくはそれを見て何か言おうかしらと思ってけれど、今日はここに手を出しても仕方がないと思って辞めておいた。基本的に日本の商売は、結構どなったり叫んだりするのが好きらしい、スーパーに行っても室内なのに、なぜか魚屋が叫んでいたり、パン屋がどなっていたり、野菜売り場の人が雄叫びをあげていたりするし、それでもそれは当然なのよという顔でみんな買い物をしていた。いや、違う日本だけのことじゃない。イスタンブールでも歩き売りのあのおやじも、何かよく分からない呪文みたいなのを叫んでいた。それでどうにかこうにか、人々が集まってくるみたいだった。不思議なのは、日本は目の前に人がいてもお構いなしに叫び声をあげることで、すごいいつも不思議に思う。

30年目の覚え書き

金曜日, 5 月 11th, 2012

そうだよねえ、すいませんでした。という風に謝るつもりは全くないのだけど、そう言ってくれて結構だと言われているような気分にさせてくれるひとがいたりして、しかも根掘り葉掘りいろいろ聞いているとだんだん相手の顔がおかしくなってきて、ああこれは怒っているなあと思うこともあったりして、時々「失礼です」と言われることがあるけれど、ぼくはなんにも失礼だとは思っていないから、ひとまず分からないことは聞く。女性に、あなたおいくつになりまして?と聞くのは失礼らしい。体重はいくつですか?と聞くのも失礼らしい。給料はいくらですか?確定申告してますか?とか聞くのも失礼らしい。良くわからないけれど、これは女性限定で失礼になるらしい、事実ぼくはこうゆうことを時々聞かれる。ちゃんとご飯食べてる?とか体重どれだけ?とか、ちゃんとお金あるの?財布にいくら入ってる?とか聞かれるから、普通に答える。もう一度言うと、これは女性には失礼らしい。女性はベールに包まれた存在じゃないといけないらしい、具体的じゃないほうがいいらしい。そいうことを言うとまた、失礼ですと言われるけれどそうみたい。具体的な質量を持っていないのが女性の特権らしい。その感覚に反論したいわけじゃないけれど、その感覚でいつまでいられても困る事もある。ぼくらは人間だ、分からないことも度々あるだろう。少なくとも建前上は、同じ世界に同じ社会に生きているはずで、違ったレイヤーなのよと言われるかもしれないけれど、ぼくはあなたの事が見えているわけで、その存在の半分くらいはなんとなく認識しているますぞ、ということなんだけど、どうなのかしら。そう言われる度、へえそうなのかあ、じゃあ今度はもう聞きません、と肝に銘じるのだけど、その項目が多いから困る。最近気づいたのは、数値は聞いてはダメだろうなということだった。数字は、より具体的な極地なので、数字以外の方法で認識を深めるがいいらしい。体重は100kgですと言うよりも、お相撲さんよりは重くないと言ったほうがなんとなくイメージがいい。そうイメージで生きているのだと言いたいのかもしれない。そうだけどねえ、ぼくらはコンビニでイメージは買うことができないし、死ぬ時にイメージがどうだとか言うのもなんとか腑に落ちないというか、死ぬならもう怒られないから、そんなの嘘だよと言ってやりたい気分にもなるんだれど、そいうことを言って納得するのはまずいないのかもしれない。そして、もうひとつ気づいたのは、人(特に女性は)人生をより良く生きることに専念しているのであって、ぼくにその感覚はこれっぽっちもないのだった。非常にぼくは虚しい人生観のなかで生きていると言えばそれまでかもしれないけれど、ぼくは少なくとも闘いを強いられていると思い込んでいる節があって、人生が豊かになるとか充実させるという感覚ではない。先に目的があって、それをいかに達成しうるかという野望的な闘いだ。格好つけて言えばだけど。だから、与えられた有限の人生のなかで、自分を豊かにする、という感覚ではない。寧ろ、目的の為には、自分が被害にあってもいい。実際のところ、アーティストを続けるうえで、多大なる貧困に立ち向かううでは、この考えは強い。屈することはない。ただ考えて見れば、どちらが自分なのかも分からない。目的に向かう丹羽良徳も自分だが、腹が減っている丹羽良徳も自分なのだ。というような、二重のレイヤーのなかで自己の像を結び上げていきている。だから女性の友人により良く生きることを説明されても、ぼくはこれっぽちも理解できないまま時間が過ぎ去ってしまうような気分だった。でもそれはそれでいい。分からないことは、聞けばいい。ただ、問題なのは、分からない事ばかりの世界のなかで、いつのまにか分かっている事にされていることを皆はいつどこでそう理解しているんだろうかと、いつも疑問に思ってしまう。お金を獲得(敢えて稼ぐとは言わない)術だって、働く術だって、どこでどうそう覚えたのだろうか。ぼくにはこれっぽっちも、分からない。だから、いつも0から全部聞こうとするのだけど、どうも具合が悪いらしく、なんでそんなこと聞くのかね?あなたは、みたいな顔をされて、仕舞いには機嫌が悪くなるひともいる。だけれども、僕からしてみれば、分かっていることは、自分がいつか死ぬだろうという事くらいで、その他のことはこれひとつとして理解できないままでいる。だから、作品が作れるのだと思って信じて止まないのだけど、そうでもしなくて、本当に人生を豊かになんてできるものか?という疑問でいっぱいだ。永久に分からないまま死んでしまうのかしら、なんていう一抹の不安もあるのだけど、ようやく30歳になろうとしつつある段階のなかで、いやこれはもう40歳になっても、50歳になっても同じことだろう、いきなり神様が降臨することなんてないだろうという想像はつく。あるアーティストに聞いたところ、40、50歳でも全然、失恋するよ、と聞いた。当たり前だ。でもそういう、当たり前の事を言ってくれる人が僕はとても、必要だと思う。いや違う、ぼくはその聞いている女性と距離が遠いのではないか。それは事実そうなのかもしれないけれど、距離は測るものであって、作り出すものではないだろう。いや、何を言っているか自分でも分からない。例えば、あ、あの子可愛いなと思うコンビニの店員がいても、レジでおつりをもらう瞬間に手を握り返しえて離さないままでいれば、きっと警察に連れていかれる。いや、現代都市的にはそこから始まるかもしれない。いや、間違えていけないのは、それは単なる不審者なのであって、一方的な攻撃に過ぎない。

生活だとか、暮らしだとか言う言葉が非常に嫌いだ、意味が分からない。そもそも意味がないから苦手なのかもしれない。そこに充実感を得られる人ならば、よかろう。ただぼくには無理だ。人生はなんらかの目的化されたものでなければ、そうしてこんな虚無の時間をやりすごせようか。否、人生そのものの時間の中に浮遊すればいいじゃないかとも思う人もいるだろうけれど、それじゃ何もかも台無しだ。さよならだけが人生ではなかったのか。そんな事を想い巡らせていると、有限の人生の時間の中でよりよく健康的に暮らすことが幸せだなんて言うのは、何か忘れ物が多過ぎな気がしてならない(誰かの批判をしているわけじゃない)。ビールを飲むことが苦手なのも、同じ理由だということに最近気づいた。ビールを飲むことに意味はない。でも大抵の意味のないことは、ある一部の人にとっては快楽的であって、心地の良いことらしい。そいうことを考えていると、ひどくつまらない実も蓋もない人間のようだけど、とにかく当たり前のことがどうにか、分からないままで生きて行くのが一番充実した人生になるように思えてならない。

コーヒーが不味過ぎてどうする

木曜日, 5 月 10th, 2012

いいなあ、ずるいなあ。なんて言うのが最近の口癖で、なんだか知らないけれど、旅で立ち寄った場所とかでそんなことばっかり言っていた。当たり前かもしれないけれど、必死で駆け巡りまくって滞在制作していたロシアとかスイスとかフィンランドではそんなことは一言も言った覚えがない。そう考えると、日本で僕は何をやっているんだろかということになってきて、馬鹿野郎、もっと必死になれよこの糞野郎なんていう言葉も聴こえてきそうだけれど、まあそんな事でここのところそういう言葉を言った。ただし、最大の問題というのは、軽くはいいなあ、ずるいなあと思っていても心の底から憎めるほどにずるいなあとは思っていないことで、ここは二重のレイヤーに隠された言葉を発しているようだということだった。それは、不確かなことなのだけれど、ずるいなあと思いつつも、このやろう今に見ていろ!と思うような事を同時に心の底に決め込んでいる突き刺さるな日常生活の荒波に飲まれ込んで溜まるものか!という捻くれた天の邪鬼的な意志表明なのかもしれない。コーヒーが不味過ぎてどうする。

床屋のパラドックス

月曜日, 4 月 23rd, 2012

それはバレてはいけないことなんだ。というと、何だか物語の始まり予感がしてしまうのだけど、そうじゃない。そうではなくて、ある野心的な目的のために立てられた戦略的な行動においては、あるときは非合法手段や水面下の計画だってありうるということだ。しからば、日々の生活はそのように計画されるべきではないかと思う。いつの時代だってそうだ、ぼくらが満足に生きていける保障なんて誰もしないし、する筈もないし、して欲しいとは本当は誰も思っていないくせに、幸せにだとか、毎日静かに暮らすとか言って、なんだか良く分からない雑誌だとかが出版されたりするので、毎日いらいらする。すくなくとも闘争していてくれれば、まだ落ち着くというものだ、もっとぼくを焦られてくれよ、思うがそれもとても日和見的な考え方でしかないので、最終的にはスターリニストだと批判されても仕方がない。そういう意味では、穴も空いていて洗濯もしてないしズボンばっかり履いているけど、まあそれでも諦めるには、まだ早いぞと言われるような気分になったりもする。救いの方法は禁欲しかない。

5年後の混乱

火曜日, 4 月 10th, 2012

歴史の土台の上で生きるとは簡単に言えることなのだけど、実際どうするのか。その答えはぼくはまだ分かっていない。橋下徹さんの言うところによれば、政治の本丸は具体的に行動に移すことだと言う、いやそうなのだ。政治はそうなんだ、実際のことを決める。決めなきゃいけない。そう間違ったことに後々なろうが、なかろうが決めなきゃいけない、だから問題になって暴動がおきたりする。確かにそれはロマンのあることだろう。だだそれと同じ方法論で語ろうとするのにも無理がある。僕らはそれじゃ無理だと言う、思い込みも持っていないといけない。芸術は元来無駄であったという余分な余剰な空間からの人間性の回復ではないのか?という基本原則を忘れてはいけないだろう。政治だけで国がきちんと動かせると思ったら、大間違いなのだとうことだ、だって国民全員が政治家になるなんてないだろう。ぼくらの精神の根幹を成すイデオロギーはどこからやってきているのだろうか、冷戦以降イデオロギーの崩壊と言われて久しいが、実際のとのころはどうだろうか、そんな疑問で一杯だ。敗戦後の日本はどのように、このように成長してきたのか。実際ところ歴史を横断して生きていきているわけではないので、実感として確かめようはないのだが、きっと残されているとすれば、消え行く記憶をどこかでたぐり寄せて、つなぎ止めようとすることではないか。そういう意味では、ドキュメンタリー映画というものに、価値をもっと見いだしていいのではないかとも思う。かなり滅茶苦茶に書いている文章なので、許して。推敲はしていない。芸術の専門用語で「サイトスペシフィックアート」と呼ばれるものがあるが、それを応用すれば「タイムスペシフィックアート」というものが必然的に重要になってくるのではいかという確信。決められた時間の中でしか生きられないのが人類であるならば、そこで生み出される芸術というものも、当然「タイムスペシフィック」として認識されていってもいいのではないかと。で、そこで何が変わってくるのかというと、真理云々の話になってきて。そんなものは、もう重要じゃないかもしれないということ。そうすると、どうなのか、真理や事実以外に、じゃあどうするか、それこれをどう処理するかという行動に集約されてくるんじゃないかということ。それは芸術の得意分野だ。ふらふらしてる場合じゃないけどね。

ゴミ屋敷2

土曜日, 4 月 7th, 2012

「もう、○○は二度とやらない」と何と考えただろうか、今日だって内容は明かさないけれど、そういうことを考えていた。合理的で世渡り上手な人はそんなことしないで、選択肢をたくさん持っていたほうが可能性だって広がるに決まっているし、生命を賭けた闘いならばそんなこと言っていないで、目的は手段を正当化するとも言うのかもしれない。それにしても、ぼくはそう言った行き方ができないで、倫理と精神をごちゃまでにして、まごついている凡庸な人間なのだ。もう二度と酒は飲まないと言っていたのも、然り。きっともっと酒が飲めれば、出会う人も増えるだろうし、話だって進むのかもしれないし、考えつかないことも突然結び付くのかもしれない。但し、ぼくは酒でなくて、珈琲なのだ。そこにあるのは選択肢や可能性なんかではなくて、単なる決定なのであって、自分自身が決めた規範なのだ。それに自分自身が従属するなんていう考えは、これっぽっちもないが。突拍子もないが、だから芸術家をやっている。そう昔の僕が決めたからだ、自分が言ったことに自分が従わないのは、みすぼらしいことだ。やらない事を次々に決定していくことは、やる事をどんどん決めることにもなる。精神貧弱な自分に変わって意志決定をさせるためにも、それはやらねばならぬ。続きはWEBでなどではない、続きも自分なのだ。

大陸トラベル

水曜日, 1 月 4th, 2012

とんでもないお正月だなという勝手な解釈と、そうでもなくて単なる休日以上のことをしていないじゃないかという感想と同時に感じていて、そんなのただの愚痴でしかないじゃないかという、愚痴の上乗せみたいなことばっかりやっていてとても非生産的で、非建設的。ただひとつだけ言えることは、新年だとかクリスマスだとか宗教的内容には一切触れないが、そうやって適度に区切りを作ろうとすることは、とても人間にとって必要なことであって、そうでなければ人生80年くらいの人生が空虚で溜まらなくて死んでしまいそうなくらいに、寂しくてどうやっていても立ってもいられなくて、苦しくなってしまうに違いないから、人類の叡智だと思うし、それにとやかく言う必要はないと思っているけれど、その姿というのはとても可愛らしい人類の姿だと思っている。人はロマンティックなことが好きであるし、自分の人生だけはと思っているのだから(いつだって自分の人生の主人公が自分以外になることはない)死を前提とした限りある時間の中で生きて行くことは否定できないし、否定しようとも技術的に未だ不可能であるし、死ぬから出来ると思えるようなこともきっとたくさんある。結婚だってそうじゃないかと思った。今日はこれで終わり。