'blog'

砂漠ソビエト

月曜日, 1 月 2nd, 2012

記憶は消え去ることが前提で生まれてくるのだから、さっさと消えてしまえばそれでいい。なんてね、というとなんだか寂しいような悲しいような感じにもなってしまうけれど、そんなことを言ってしまってもどうしようもなくて、さっさと寝てしまうしかない。本当はこうに違いないと思ってメモを残そうにも、そんなこと役にたたないで死んでしまうまでに、いずれかゴミになって塵となって消え去ってしまう。むしろ、そうやって消え去ってくれさえすれば、まだいいほうで、きっともっと根本的に厄介なのは、消えてしまわないで残ってしまうことのことを今風な言葉で言うと、現代とか言うのかもしれない。もちろん最前線でぼくらは歩兵として闘っている限りでは、そんなことを振り返っている時間はないけれど。

お葬式と誕生日

水曜日, 12 月 28th, 2011

来年はどうなるのかしらって、当然だけど思う。2012年じゃなくても当然思っているはずで、でも来年は2012年だから、あれがこうなって、ああなるのかなんて計算できたりもするけれど、そうなるのかどうかは分からないから、きっとそんなことを考えているうちに、現実が想像を追い越してしまうのだ。そうに違いない。最近、空虚な思いばかりを溜め込んでしまっているのは、きっとTwitterとかfacebookとかに無関係なことではなくて、ぼくらが潜在的(洗剤的)に抱え込んでしまっているであろう、あれなんだということで片付けておくしか、なかろう。そうでなければ、明日のことに怯えて自殺してしまっても、彼を責められない。ぼくはきっと、一度しかみたことのない、それも二次的三次的(惨事的)な記憶だけを美化してしまって、それと結婚しようとしているのかもしれない。だから、いつまでたっても結婚ができない。自分から遠ければ、遠いほぼ、それは神秘的で美しいし、希望があって、可能性となる。だからといって、身近な生活をないがしろにした、自分を責めるわけにもいかない。それを引き受けて生きるしかないし、時間がなければ、灰皿にご飯を盛ってもいいだろうし。それにはメゲナイ。という意味で、未だに衣食住にはほぼ興味がない。

森の中で街の中が見える

火曜日, 12 月 20th, 2011

予定表はカレンダーをずっと見つめて頭の中でjpeg保存している。というのは複雑な言い方なのだけど、そいうことになっていて、ずっと使っているカレンダーがないだけでどうにもこうにも予定が頭に入ってこないということは、そういうことなんだ理解した。とんでもない非合理的なやり方なのだけど、日々の慣れてしみ込んでしまった些細な作法というものがあるが、それは破壊された。もしそうならば、これからどうやって生きていけば良いのか、それが問題であって、当然生きるとか死ぬということは、その未知の領域に向かっていく不安のなかで、開発と挫折を繰り返し行うしかあり得ない。当然ながら多くの人が思うように、今日よりも明日のほうがずっと素晴らしい日々が待っているだろうなんて、多いなる勘違いであって、今日も明日も明後日も良くわからないし、どうなっているのかも不明であるし、きっといつか死ぬだろうという未確定だらけの日々を送るしかない。だからと言って自殺してやろうかともそれは、歓迎されるべきことではないので、大いなる不安があったとしても何とか生き抜かなければいけない、英語で言うとサバイバルなのだ。どこか全く知らない街で知らないおじいいさんに出会っても同じことを話せたらいいと思って、その訓練をしているのである。

トルコリラの幻影

月曜日, 12 月 19th, 2011

飛行機の中で死んでやろうかなんてロマンチックなことを考えてしまったのだけど、そんなどうでもいい葛藤を抱えつつも、トルコで撮影した(しかも偶然、イスタンブールで知り合った日本人に撮影をお願いした)ヴィデオをみながら、あーでもない、こーでもないと、フラフラしている。とんでもない。本当だったらならば、今現在どうであるべきなのか10歳の自分に聞いてみたいところだ。思い返してみれば、トルコはここ数年で珍しい観光だったのかもしれないと思うと、ぼくの人生ももっと面白くなるかもしれないとか勝手なことを支離滅裂に考えている。マイクロウェーブ。

丑三つ時

火曜日, 11 月 1st, 2011

午前2:36。今の時間なのだけど、いつも大抵このくらいの時間になると昼の精神状態とは違ってくる。いいのかどうかは良くわからないのだけど、そういうことになっていて、もういい加減終わらせないといけない(まずい)書類がいっこうに終わらないで、気持ちが悪いので久しぶりにブログなんぞ書き込んで消化不良気味の不良な気分を紛れさせることになっている。というのは、何もかもぼくらはやらないといけないことなんで、本来は何ひとつ無いと思うのだけど、生きる上でそうはいかないので、あーだこーだやらないと進んでいかないということになっている。職業だって選ばないと誰も与えてくれないのは当然だし、何らかのことをして働かないと金銭なんぞ生まれてこないし、やっても来ないのだから、当然その通りだから、きっとそんなことも全部関係なしに自然も存在しているに決まっているのだけど、ぼくらは自分たちで作り上げたシステムの中で餓死しそうで苦しいのだと思うと何だか面白いこともある。当然だ。だからと言って、何でもフリーダムでいいのだと言うことも当然無理だし、政府を破壊して自由を勝ち取ろうとしても歴史を見ればわかる通りに、自由が自由でいられるその賞味期限は本当に極僅かな、もっと言えば微かな希望の中だけにしかないのかしれないし、だからと言って幻滅して自殺でもしてやろうかと思っても、それも最善の手段だとは思えないから生きているわけで、当然ぼくらはそんなこんの経験をしているはずで、それは既に了解済みだと言ったほうがいいのかもしれない。けれども、その了解済みのことを何度でも言ってやろうじゃないかというのが、人生の味噌なのかもしれない。

孤独

火曜日, 9 月 27th, 2011

理論的なテロリズムは有効かもしれないが、実際は実現できないその不可能性にぼくらは革命の欲望を見いだしているのかもしれないが、これはきっとかなり恵まれた状況のなかでしか発言できないような腐った文句かもしれない。常に考えないといけないことは、究極のことであって、それを蔑ろにすることはできない。

刺身と海

日曜日, 9 月 25th, 2011

韓国の釜山滞在の3回目。今回は作品の設置とオープニングの参加が主な用事であって、それいがいは特に考えてないからどうしようかしらなんて、思ったりもする。設置と言っても案外、業者任せなのでぼくは適度にチェックする程度。秋の早い夜の到来になんとなく孤独を感じながらも、それでもいいんじゃないのかなあなんて、日本語でぼんやり考えることしかできないのは、どうしてだろうかと思うけれど、そもそも考えるなんて何のことなのか理解できないなあと思うことにして、適当に切り上げる。ホテルの対岸がいつも奇麗に光っていて、いいなあなんて思うのは、他人の庭は奇麗に見えるということなんだろうか、それとも辿り着けない、ここではないどこかを求めるのが人間なのだろうか。きっとそうに違いないとか思っているのはぼくだけではないはずで、いまぼくは釜山でこうやってぼんやり、とりとめのないメモ書きみたいなものをアップロードする瞬間にも殺戮や爆撃や戦争やテロが起こっているに違いない。けれども、そのような事にどこまでアプローチできるのは不明だけども、知っておくことだけでも違うかもしれない。日本に帰ったらどうしようかなと思っているけれど、韓国の甘い珈琲でも飲んで考えるふりでもしようかと思った。

ゴミ屋敷

水曜日, 9 月 7th, 2011

釜山3日目。撮影も無事に終わり、あとは看板屋さんとの調整と印刷データのみだ。やるだけのことはやったと思うから、あとは現場仕事である。東京に戻ったらすぐに青森に行かないといけない。そのあとはモスクワも待っていると言うか、おそらくモスクワに待っていてもらっているというのが正確な言い方なのかもしれない。でも毎日釜山で焼き肉を食べたりしているけれど、安いからなんとかなってしまう。近いようであんまり近くない韓国にいきなり来て何やってるんだろうと思う瞬間もあって、そんなこんなで30歳に近づいてるなあと思っているとこんな人生もいいかなと思う。毎日変えると髭もじゃの自分が映る鏡を見てなんとなく安心する。

取り返しのつかないことをしました

金曜日, 9 月 2nd, 2011

と良く人は言うのだけど、だいたいが日々の生活において、取り返しのつくことなんて殆どないような気がする。ご飯を食べてしまって、取り返そうとして吐き出しても無駄であるし、そんなのは当たり前に取り返しがつかない筈であるのに、なぜかそこではこれが人類初めての出来事のように言うのだ。そんなの当たり前だろうに、ぼくはいつも取り返しのつかない人生を送っているわけだし、取り返しの出来る人生というのは何ぞや。

暴走族

月曜日, 8 月 22nd, 2011

もうすぐモスクワに発つことなっていて、今月は目の回るような移動の連続であって、望んでいたことなのだけど、さすがに目が回ってふわふわしているなんて言うと言い訳かしらなんて思われるかもしれないけれど、そうなんだと言うことでしかない。モスクワなんて言うのは、ビザも必要だし、今回はそのビザ取得も自分でやっていないから、どうやって申請しているのかも段取りもよく把握していないままに、航空券も自分で取得していないから本当はいくらなのかしらなんていうことを考えたりしている。あまりにも情報が少なすぎる国だから、何とも言えないし、大きな国には違いないけれど、そこには歴史的な出来事とその残骸が刻まれていいて、ぼくの入り込む余地なんてあるのかしらなんて考えながら歩くしかないかもしれない。

昔、意気込んでルーマニアに乗り込んだ時の感動は味わえないのかもしれないし、南米に到着した時の未知数に包まれた大陸の神秘は感じないのかもしれないが、超大国ロシアというイメージを思いきりぶち壊してくれるような体験ができればいいなあなんて勝手に思い込んだりしている。普段は飲まないウォッカなんていってしまうおうかしらってついつい考えるのは普通だから、辞めておく。ぼくにはやることがあるんだと言う緊張感のなかに包まれながら行動しないといけない、ぼくはたぶん自分の規範意識から逃れられない。だからこうやっていつもどこか知らない場所に時々飛ばないといけないと思うこともある。それはきっと精神的に滅茶苦茶にしないといけないということも分かっているからだ、なんだかそういうことを考える夜なんだ。明日はモスクワ。

溝に落ちてしまえ!

しろくま

水曜日, 7 月 13th, 2011

新宿で撮影。いつになっても撮影が下手糞である。もう10年以上やっているはずだけど、未だに要領を得ていないということだろうか、そのほうがいい場合も多々あるのも事実だけれど、それでいけないのも事実だ。ということなのだ。ようやく30歳にして、希望していたようなことが実現しつつあるのを目前にして、なんだか不思議な恍惚感に包まれながらもなんだか良くわかっていないような気がする。というか希望は希望のままなんだろうか。きっとそれでいいような気がする。貨幣。

明日の今日

火曜日, 6 月 28th, 2011

寝坊してしまって、いつもは1時間くらいかかる道程をほぼ20分くらいで移動した。しかも、久々に猛ダッシュしたので、かなり気持ちが悪くなってしまって吐きそうになった。こんな今日の記憶も10年後には忘れてしまうんだろうな。それでいいんだ。きっと。

嵐の前後

月曜日, 6 月 27th, 2011

松尾君に珈琲の生豆の焙煎のやり方を教わって、生意気にも今日も焙煎をしてみたのだけど、フライパンが重過ぎて腕がどうも痛くなるのだけど、これもなんだか運動会のようで面白いからいいなと思って続けられそうだ。まだぼくはどの程度の焙煎具合で濃さがどの程度になるのかは分からないし、これでこれくらいかなというタイミングも分からないし、これが美味しい豆なのか、他のを知らないので比較できないから何とも言えないけれど、明らかに焙煎された状態で市販されているものは違うぞ。それでも美味しい飲み物だとつくづく思う。珈琲が。たぶん1日10杯前後飲んでいる、朝起きてから寝る5分前までずっと飲んでいるので、身体には悪いのかもしれないけれど、まあこれでいい。寧ろ飲まないと最近は頭がすっきりしなくてぼんやりし過ぎる。これを中毒と言うと思う。カフェインの刺激がないと正常でないような気がするのだ。正解だ。間違いないと思う。昔は居酒屋でぼくだけ珈琲を注文していたこともある。肝心なのは、覚醒してることなのだ、決して酔ってはならず、意識をぼやかしてはいけない。それは今でもそう思うし、それでなければ生きていけないよ、と思っている。ただしカフェインにも負けるな。闘いだ。ぼくらは世界や社会が日々進歩しているという幻想のなかで、それがきっと単なる物事の変化なのだということを忘れるな。ということで、好きな人ができました。

刺身が旨かった

土曜日, 6 月 25th, 2011

けど、ぼくは元々海鮮物が苦手な筈なのに、美味しかった。昨日、おとといは青森の国際芸術センター青森の下見と市内散策で一日中自転車で青森市内を巡って、温泉に入って、ご飯を食べて、話をしてきた。分かるだろうとたかを括っていたら、夜行バスの集合場所が分からずあわや乗り遅れるところだったが、なんとか乗車して、お尻が痛くなって新宿のモーニングセットを食べて、帰って風呂に入った。横浜美術館の木村さんからもメールでようやくなんとかプロジェクトも進めそうな予感。こんなところでクタバってたまるものかと思っても、部屋が厚過ぎて蒸し風呂状態なので、玄関を開けっ放しにするが、風が強過ぎて断念して、がまん。夜は夜で秋田のプロジェクトでスカイプ会議通話というのを初めて使った。人生で初めて使った。暑いのだけ珈琲が旨すぎる。そして煙草がうまい。腹をくだしそうだけど、それでいい。明日は珈琲の生豆が待ってるぞ。家なき子!

さっきすれ違った人と結婚するかと思った

月曜日, 6 月 6th, 2011

ここ最近ブログを書いてなかったので、どうしてもやっぱり書こうかと思って書くことにする。思えばきっとfacebookとかTwitterに集中力を奪われてしまってブログを書き込めなかったんだと思う。それじゃあ駄目だと思うからやっぱり書くことにする。たぶん、真面目にやっぱり書こうと思ったのは、ある作家のブログを読んだということもあるし、これがきっと記録にもなるんだろうなと思うからだ。

ここ最近は嬉しいことに展覧会やレジデンスやイベントのオファーが増えてきて、未決定なものも含めるとかなりの件数になってしまった。嬉しい悲鳴ではあるんだけど、ちゃんとこなせるかしらという微妙なラインでもある。考えてみれば、これを機会に東京も脱出することも考えている。実は8月〜10月に青森に滞在の予定があるのだ、それを機会に一気に東京を離れて数年は帰ってこないで置こうかとも思う。それがどの程度、実現できるのかはわからないけれど、とにかく8月から青森に行くことだけは決まっているので、そこからふらふらしたプロジェクトを順次決めていくしかないと思うのだ。というのはやるしかないし、出るしかないのだと思う。それにはまだ準備がいることだし、それなりの作戦もいると思う。その準備にいま充てているし。正直に言うとここ数日はずっと、予算の計算とアイデアを出すためのブレインストーミングばっかりしている。やや頭が痛いのだけど、それでいまはいいと思う。

今日は井上君たちとボンベイというインドカレー屋さんに言って、結構それなりに高級なカレーセットを食べた。マトンカレーとボンベイチキンカレーセットで1680円だったような気がする。かなり旨かった。まだ鼻水が出るので、調子が悪いのかなあと思っていたけれど、そうでもなくて何故がかわいい店員さんに絡んでしまった。それはそれでいいかと思って、帰りに新宿西口の喫茶ピースにも寄った。丹羽君、酔っぱらってるみたいだねと言われたけれど、今日はアルコールを飲んでいない。ただそういう雰囲気だったということなのかもしれない。Googleの責任だとか言語と戦えと言った覚えと、ピースの女の子の店員も可愛いなあと思ったのは覚えている。あと、メガネをかけてたウウェイターに「いい眼鏡だね」と言ってみた。それでいいと思う。知らないけれど、他の店員にも笑われたみたいだった。コーラフロートを注文したら、珈琲フロートが出てきた。

さっきすれ違った人と結婚するかと思った。

さかなくん

月曜日, 5 月 30th, 2011

進歩するって何のことなんだろうかと思えば、くちゃくちゃになった頭がいっぱいで何も考えれなくて思考停止になってしまうかもしれない。だいたいが人生は死に向かって生きていくだけのことを整理をつけてポジティブに行こうなんていうくらいだから、どうしようもないと思うけれど、ぼくはそれが虚しいとも思わない。ただそうなんだと思うだけで、お腹が空くと同じくらい当たり前だと思う。だけれど、人生にはいろんな個人的な転機というのがあって、これはどうしようもない出来事なんだと勝手に思い込んで興奮したりする、実はその思い込みが出来るどうかが重要で、何もクールに生きる必要はない。本当のところはいつだって興奮していきてればいい。珈琲を淹れて、飛んで跳ねて興奮したっていいし、狂人だと思われてもそれはそれで幸せだ。自分の幸せと他人の幸せは違うし、それは共有する必要性がいつもあるとは限らないのだ。それを見つけられるかどうかのことで、全然違う。鉛筆が転がっただけで、笑えてくるのがいい人生かもしれない。今年の夏以降はどれだけ出来るか分からないけれど、予定が詰まっていて本当にそれはそれで嬉しいし、青森に行ったり、秋田に行ったり、オランダに行ったり、韓国に行ったり、ロシアに行ったり、ポーランドに行ったするかもしれない。どこかのポイントで会いたい人には会いたいと言ってみようかなと思っている。その区切りを自分で納得するように設定するのが自分自身の動きとして楽しみだ。例えば、来月死ぬと決定したら、どの順序でどの人に会いに行くんだろうな。そんなことを考えていると夜が明けるのも待ち遠しくて溜まらない。

牢屋2

火曜日, 5 月 17th, 2011

ホリエモンはお金で買えないものは無いと言ったみたいだが、そこのは何かしらの訳があるんだと直感で思った。ぼくは愛はお金で買えないとか言うつもりはないし、それはそれで正論かもしれないが、それを言うのならば、この先の議論には進めないので、辞めておくことにする。問題はそうではなくて、なぜホリエモンがそういわないといけなかったのかということであって、そこではない。このことについてはぼくが2010年に書いた文句の中に何かしらの関連があると思う。

私たちの社会がいかにどのように私たちの生活や価値観を支え合っているのかという設問に対して、
さらにその関係は脆くも奇跡的に互いに浸食しあっている(か)のような、あばよくば邪魔者は
殺してしまいたいと思えるような現代のあらゆるマスに対する脅威とあらゆる個人が孤独である
という最終的な結論とその幻想共同体に関する一切の回答 (丹羽良徳, 2010)

お金で買えないものはない, 堀江貴文
http://www.kaomojinavi.net/horiemon/kane/05_kaenaimononai.htm

お金の使用というものは、消費というのは対価を要求するものだという大前提であって、その大前提はほぼすべての場合、寄付などを除いては達成される。寄付も精神的には達成される可能性がある。その原理原則にたつならば、お金の期待値というのは無限であって、ありとあらゆるものを要求することができるということなのかもしれない。ただぼくがここで気付いたのは、所有を巡る問題である。消費はさらには所有を要求することでもあって、所有を拒否することは難しい。単純に言えば買ったものを捨てるということはできるが、その処理まで責任を取らされるのだ。というのがこの社会の原則であって、その不可分な関係性はなにかホリエモンの問題の核を揺るがせないのかと思うのがぼくの考えで、この未曾有の大震災以後、社会的機能への還元価値がありとあらゆる価値基準になるそうなムードに対する反抗行為とも思えるような態度にもなりかねないような。なんてね。

牢屋

水曜日, 4 月 27th, 2011

新宿で珈琲フロート。ある一瞬の休息が幸せなのか何なのかは後になって考えたとしても、何の意味もない感傷でしかなくて、一体何であったのかと問うよりも、だったら何なのよと言って走り去ってしまうような、取り留めないの無い人が好きで、多くを語らない人が好きだ。僕らには記憶とか過去とかというものがどうしても気になってしまうことが多いのだから、こんな忙しない人生を送る羽目になっているのだけど、考えてみれば(考えなければ)ぼくらはきっともっと純粋無垢に生きることが可能な筈なんだけど、それはきっと無理だという半ば諦めのような希望にも近い可能性をぼくは感じている。何事もそうなのだけど、度合いが過ぎると一回転して、薬も毒になるし、毒も薬になる。

時には無力な姿というものも必要なのだ

木曜日, 4 月 21st, 2011

良く言ったものだけど、人は良く「心だ」とか言うけれど、心で家賃を払っている訳でもないし、心で電車に乗っている訳でもなくて、心でドアを開けるのでもなく、心で歩いている訳でもないのに、良く言うものだなあと思うのだけど、さてはて心だなんて都合のいい言葉を作ったものだと思う。そんな代名詞的なまやかしに騙されれてたまるものかと思う節と、いや我々は精神無くしてもはや人間ではないというのも理解できるけれど、そのあやふやな非常に非情な発展途上の泥沼に生きているに違いないと思った。テレビで元ボクサーの竹原さんが韓国でキムチを買おうとしていたのだけど、彼は韓国でも「心だよ、心!」と言っていたのに、英語も韓国語もできない彼はすぐに挫折してしまって「言葉の壁」を感じるとしょんぼり言っていたのを見てぼくはなんだか心が温まったのだった、彼はキムチひとつ買えなくて路頭に迷てしまうのだけど、そこに心はあるんだろうか。いや心が何でも解決できると勘違いしてはいけない、解決できないという無力で虚無で無責任で無能な我々が言ってみれば心なんじゃないかと思う。それはぼくらが必要なものは、すべて万能な武器だと勘違いしてしまいそうな奈落の底に落ちそうになって躓いてから気付くような単純な灯台下暗し的な質問だったのかもしれない。時には無力な姿というものも必要なのだ。

モスクワの魔法使い

火曜日, 4 月 19th, 2011

生き甲斐無しに死ぬ事はできないし、死ぬ瞬間に恥は必要ないかと思うことが本当にできるのならばきっとこの人生は良くなるはずで、ぼくらは真っ暗闇を進んで行こうとも明るい未来があるはずで、ろくでもない毎日を楽しいと言えるかもしれないし、見知らぬ他人に優しくできるのかもしれない。電車の中で出会った女の子が可愛いと思えるのならば、出会い頭に「可愛いねえ」なんて言ってみるのもいいのかもしれないけれど、変態の域を出られないのならばそんなこんなで言わないで置こうと思う人が多いのかもしれない。ぼくたちはそんな葛藤を日々繰り返しているし、そういうことのすれすれの選択の中で人生が決まってくるのは間違いがない、ただ間違えていけないのは、決定的な瞬間がどこにあるのかという見極めであって、それはぼくにも分からないのだけど、今この瞬間かもしれないし、5分後のことかもしれないが、今だ!という強靭な決意のもとに行動に移すことのできる根拠というものは、どうやって作り出せるかそれが問題なのだ、震災が起ころうとも東京の知事は分からなかったし、どうやら革命が起こることは無いのだとうと思う人も多いのかもしれない、ぼくも大差ないのかもしれない。その中でいやこれはこうなのだという結論を引き受けるあらゆる二次的な見えない行き先までも任せておきなさいと言えるのが、いいのかもしれない。そうでなければ、妊娠はできない。そう考えるとぼくはとっても寂しいひとなのかもしれない。なんてね。そう思うとぼくは何だか悲しい人かもしれないなあなんて夜道を歩きながら思うこともあるのけれど、明日もきっとそんなことを考えるかしらと思うと、いや違うんだと躍起になって珈琲を煎れまくるのだから、まだ大丈夫かもしれない。まだ20代の人生が終わってもいないし、始まってもいないような気がするし、結婚もしていない。喜んでいる場合じゃない。クタバレノストラダムス。