問題であるという考え方をもう一度考えること
金曜日, 10 月 31st, 2008なんだかんだで今日は多摩美のプロジェクトの打ち合わせと準備で上野毛まで行く。風邪がまだ微妙に残っていて鼻水が出る。出る。プロジェクト実施の交渉をすべて学生を通して行っているのだけど、どうもどうも何もかもが規模の縮小を余儀なくされる。明らかに学校側は管理しようとしていて、ぼくのようなプロジェクトに対して理解できないという態度をとっている。かなり幻滅しこんなものなのかと精神的に困り疲れてしまうのだが、管理や自由ということをめぐる交渉で問題が明らかになってきたのは興味深い。例えば、廊下の照明を点滅させるのは「避難経路確保」を理由に不許可となった。明らかに理由がおかしい。避難経路を確保するのに、電球の点滅は明らかに関係がない。寧ろ、人がその場に居た方が安全でもある。ただし、そのことについて正当に追求するのは面白くがない、その許可されたことのみで楽しむことでさらにその明るみになった問題に対して、如何に対応ができるのかということであって、ストレートに挑むのは頭が固いかもしれない。そうゆう問題に関して、正直頭にくるが、学校管理という特有の問題に関して挑む新たなアイデアを構想するほうがずっとスマートである。
そういった理由で今回、様々な問題にぶち当たりながらさらに高めようと思うことで成長していければ良いかと思っている。2004年に「ヤンキー養鶏場」で人間の言語を理解しない鶏とどんな話をすることができるのか実験したことにも繋がるが、学校と学生との関係についてどんな関係を保つことができるのかという問題になっていくのかと思っている。もう60-70年代のように高揚感を持った学生運動を求めはしないけれど、どんな現代的な方法でもって新しい関係を共に作っていけれるのかもう少し考えたい。
そう、どこにだって問題は沢山あるのだ。自分の理想100%実現するのではなくて、そこで明るみになった事柄にどんな対処を施していくのか、政治的な交渉にも思えるようなやり取りには興味がそそられる。あの人だったらどうしているんだろうとふと、考えることがある。それはベトナムのアーティストチャン・ルーンのことで中国で再会した時に、話してくれた地元のコミュニティープロジェクトの話。如何に自分の生きているコミュニティーの問題に関して、新たな示唆を与えることができるのかと、やっぱり先を行くな。こんな現代だからこそ、もう一度考えないとと思う。人との関係を作る事が如何に大変で大切なことなのかと、体制批判だけで殻に閉じこもるのは辞めにしたい。
さあさあさあ。





































