ぼくは常に「本質的には」という前置詞を無意識的、置きながら話している。これからは、もっと意識的に追いまくって話をしたいなあと思うことにした。それは今日は2008年に制作されたベーシックインカムに関する映像エッセイ90分を観てからの、感想だ。http://dotsub.com/view/26520150-1acc-4fd0-9acd-169d95c9abe1
はっきりと分かったことは、これは何も経済的なシステム論議ではなくて、もっと個人的な一市民が議論に活発に関わらないといけない事柄であって、何故かというと大きな古いイデオロギーで判断を重ねて現状維持しかできない現代に向けた闘いであって、だからと言ってなんでも批判ばかりすれば良いわけでもなくて、そこから逃れて、問題なのでは経済うんぬんじゃなくて、経済によって実現されうる人間の生活であって、それは本当は本質的なことであって、実現するのが難しいとか、実現したら働くひとが少なくなるとかでもなくて、じゃあなんで働くひとが少なくなってはいけないのか?ってことだったりするんじゃないかと思う。それは一種の現代の想像力の臨界点との対決なのかもしれないし、BIに反対するひとがまだ日本に多いってことは、今の現状の経済体制と状況から逃れたそとの世界を想像(創造でもある)することすらできないんじゃないかと思う。それにはやっぱり今まで価値観との決別が多いに必要だし、それはとても怖いことでもあるし、それによって自由は得られるけれど、責任も生まれるし、さらに冷酷な世界になることは間違いがないと思う。だって、「お金がないから…」「社会が悪いんだ!」とは言い訳させないわkで、何をするのも全部自由なわけだけど、何を失敗するのも自由なのだ。と思うとこの自由も責任もないいまの状況が案外みんな好きなのかなあとも思ってしまうのは、ぼくだけだろうか。そうも批判的に書くとあまりにも酷いかもしれないけれど、正直な感想だ。
いまはぼくだって、働かなくちゃ生きてはいけないけれど、「働かざるもの、食うべからず」ではないのだ、本質的には。それは現実と理念だということだ、ここを混同してはいけない、常に理念は現実の先を行かないといけないのだ、と僕は思う。本質的に働くことが何のなのかを考えないとこの先やばいぜ。
ここでぼくが一番面白いと思っていることは、税金のことだ。よくよく考えてみれば、労働にも間接的にだけど、所得税という税金が組み込まれていて、賃金を得るという行為でさえ、税を取られる。ということは、働くということは、自分の生活ということと同時に「自分以外のみんな」にも同時にお金戻していて、消費税もそうで、何かを買うと同時にその一部を国に戻している。国会とかで消費税の使い道とか複雑な議論がなされていて、正直ぼくは突っ込んだ議論も内容もあまり詳しくないけれど、感覚的にはどうにかシンプルにしたいと思う。そこでベーシックインカムが登場するのだけど、財源の問題で、(様々なアイデアがあるけれど)全国民に平等で消費税を大幅に引き上げて、そこから財源を得ることがある。これはシンプルで面白いし、税金が完全に見えることでもどこからお金がやってくるのかということが、ビジュアル的にも理解できるし、一番いいのはお金の流れが誰でも容易く把握できることだ。これはかなり重要なことだと思う。いまの現代で複雑になったお金の流れは、問題だと思うし、はっきり言ってどこの何税が一体何にどれだけ使われているのか、ちゃんと把握できるひとはどれだけいるのだろうか。
もっと面白いと思うことは、BIは所得を増やす計画ではなく、所得の内容や根拠を変えることにあることだ。つまり収入は変わりないのだけど、その出所が変わってくるという質の変化なのだという点だ。主に消費税によって、消費することで他人へ分配することで成り立つように計画するということだ。つまり消費そのものが、現在の労働に当たるというわけだ。だって、正直に言うとこの世界でどれだけ、本質的に人間に必要なビジネスがあるだろうかと、疑問だからだ。労働を作るのにも、お金がかかってしまうのは本当に正しいだろうかと。必要なのは、イデオロギーの前では感覚的に感じたことに嘘をつかないことかもしれない。