Archive for 3 月, 2010

丹羽良徳 | ヘルシンキでの新作社会介入行為 ”泥棒と文通する”

土曜日, 3 月 13th, 2010

Yoshinori Niwa intervention project in Helsinki
“Communicate with thieves”


Japanese artist Yoshinori Niwa (b.1982) will create new site-specific works in Helsinki during HIAP production residency. “Communicating with thieves “ is a site-specific temporary installation works to imagine relationship to real thief. Shooting lighting message “On aika varastaa! / It’s time to steal!” (in Finish and English) on the wall of a building of bank turn on the light during night. People seeing this sign can imagine any level of bank robbery or theft to government authority and global capitalism as resistance response on imagination. This can be considered as resistance speaking to private property system, also “wealth” all fields is belongs to somebody from low income workers. Bank robbery sign says is possible action, but it cannot make them doing it. However thinking money and economic from a point of view of outlaw bank-robber, it will be trigger to change the world.

Previous he’s interested in how we communicate with others including animals or plants or historical existence. In his art works, he always creating and setting some impossibilities. For example, Talking to the chickens about Iraqi war, Exchanging all puddle waters from east to east and Trying to communicate with a thief and so on. Because impossibilities show us real construction of society, and people understand how we communicate with others and what we believe with reflecting its situations. Living in my life is choosing what we believe and how can I involve with others among each community, so the society people have been making in this history is most important elements for my art works.

Project Location : We’ll go around these buildings, not at same time.
Helsingin OP, Mikonkatu 13
Nordea Bnak, Aleksanterinkatu 32
Handels Banken, Eteläesplanadi 12

Time schedule
Sunday 14th March, 2010 19:30-00:00
Saturday 27th March, 2010 19:30-00:00

Exhibition
HIAP project room : 31th March -16th April
HIAP / Cable Factory C4 / Tallberginkatu 1 C 97, FIN-00180, FINLAND / Tel: +358-9-6856730 / info @ hiap.fi
http://www.hiap.fi/

Thanks to Seppo Renvall, Oliver Whitehead, Jenni Valorinta, Mikko Linnavuori, Tomasz Szrama and Marita Muukkonen
Produced in a residency at HIAP production residency programme, Helsinki
Supported by HIAP


Yoshinori Niwa (b. 1982) often uses animals, plants, and the environment in his works. He investigates their relationship with society and community, and tries to carry out a poetic plan. Niwa’s aim is to explore how to live with others. He is interested in the spaces between reality and idea. Especially those between other cultures and social classes. Niwa graduated from the Department of Moving Images and Performing Arts at Japan’s Tama Art University in 2005. He is also a curator and festival organizer. He is currently coordinating an international intervention-art event: “Artist as Activist” in Tokyo. http://www.niwa-staff.org
[日本語]
丹羽良徳 | ヘルシンキでの新作社会介入行為
”泥棒と文通する”

日本人アーティスト丹羽良徳(1982年生まれ)はHIAP production residencyにてヘルシンキにて新しいサイトスペシフィク作品を作る。“泥棒と文通”はサイトスペシックで一時的なインスタレーション作品で、人々に泥棒との関係を想像させる。ヘルシンキの複数の銀行ビルの壁に “今が泥棒の時だ!(フィンランド語と英語で)”というメッセージを大型ライトプロジェクターで投影する、営業時間終了後の夜間だけ点灯させる。そのサインを見た人々は権威や資本主義社会の抵抗行為としてのあらゆるレベルの想像上の銀行強盗や盗みを想像することができる。そしてまたこのサインは低所得労働者の私有財産制度やすべての土地が誰かのものであるという富に対する抵抗の声とも捉えることができるかもしれない。このビルに掲げられた声は実行可能ではあるが、実際に泥棒を突き動かすことができないかもしれない。しかし、泥棒というアウトローからの視点でお金や経済のありかたを考えることは、きっとこれから社会を変えるきっかけになると思う。
以前から彼は動物や植物や歴史的事象といった他者といかかに関わるかということに興味をもっている。そして彼の作品は常に、鶏にイラク戦争を説明することや東ベルリンの水たまりを西ベルリンに移しかえるといった実行不可能なことを設定する。それはその不可能性によって、社会の構造を暴き出そうという目的からである。そしてまたそえは、人々がどのように他者と関わり合うのかは、何を信じているのかという裏返しでもある。そして生活の中で何を信じて何を選ぶのかということは、それぞれの共同体のなかでどのように関係性を築くのかということに関わることである。そのため私達が作り上げてきた歴史ということは最も私の作品で重要な要素である。

実施場所:
Helsingin OP, Mikonkatu 13
Nordea Bnak, Aleksanterinkatu 32
Handels Banken, Eteläesplanadi 12

タイムスケジュール:
3月14日(日) 2010 19:30-00:00
3月27日(土) 2010 19:30-00:00

展覧会:
HIAP project room : 3月31日 - 4月16日
HIAP / Cable Factory C4 / Tallberginkatu 1 C 97, FIN-00180, FINLAND / Tel: +358-9-6856730 / info @ hiap.fi
http://www.hiap.fi/

協力: Seppo Renvall, Oliver Whitehead, Jenni Valorinta, Mikko Linnavuori, Tomasz Szrama and Marita Muukkonen
この作品はHIAP production residency programme, Helsinkiの滞在期間中に制作されました
Supported by HIAP

丹羽良徳 1982年生まれ。アーティスト。多摩美術大学映像演劇学科卒。主に社会や共同体との関わりのなかで、実現不可能でポエティックなアイデアを無理にでも実行する。そのアイデアと現実との差異のなかに人間性を見ようとする。また、マインドマップをベースにした言語を多用するドローイングも制作する。主な作品に鳥インフルエンザが流行した時期に鶏にイラク戦争や身の回り様々な質問をしにいく「ヤンキー養鶏場」、世界中の水たまりを口で吸い上げ別の水たまりに移しかえる「水たまりAを水たまりBに移しかえる」、ノルウェーの町中で100匹の猫と握手するために奔走する「ノルウェーで100匹の猫と握手する」などがある。また、東京とサンフランシスコのアーティスト主導の国際交流展「Tokyo- San Francisco Art Festival ‘06」、都内のパブリックスペースをゲリラ的に活用した国際芸術祭「Artist as Activist」などを企画しオルガナイザーとしても活動する。この他、近年は自己の生活と芸術との繋がりの中から様々な任意団体を組織した。URL : http://www.niwa-staff.org/

計画に関して

水曜日, 3 月 10th, 2010

見つからない物を探すというのは、単なる言語の矛盾だけじゃなくて、見つからないから探すわけであって実はとても合理的というか、同時成立的に、見つからなくなったから見つけられないという名前が付けられたような感じがあって結構好きだ。でも好きだということだけじゃ、駄目なんですとか言う人もいて、もっと論理的な説明をしなさいと言う人もいて、じゃあどうするかというと、リンゴが落ちるのは重力があって、重力というは物体と物体が引き寄せるエネルギ−のことであって、どうのこうのであって、それがこうのこうでこうなっているんです、とどこまででも続けることができてしまって、多分人生が終わるまでそれは続けることが可能であって、じゃあどこで終わればいいのかということが、結構な問題となっていて、それが実は見つからない探し物っぽい感じがする。

とっても簡単に言うと死ねば終わるのだけど、そんなの消極的だと言う人もいるけれどそれが以外にぼくは方法を知らないと思う。そしてすべての哲学が計画でしかないという事実とその限界性に対してぼくは、とても共感と喜びを覚えると共に、探すという事自体がつまり自己矛盾というか「探し出されたもの」には興味がないにも関わらず探さないといけないという窮屈さのなかで自己を埋没しないように努力したいと思う。

公共は盗むことができるか

土曜日, 3 月 6th, 2010

「おやすみない」という言葉はいつ生まれたんだろうかと考えてみる。僕らはいつの時代に生まれようとも時間の有限性のなかで、つまり命や感情はいつしかなくなってしまうことだったり、いつしか自分の身が砕け散ってしまうという儚さのへの些細な抵抗が文明を支えて来たようにも思えるし、その反抗が願いかなうとは分からないままに進んできたと思う。でも確かに技術や文明だったりしない文化の中に、人間が人間であることの面白さが隠されたいると思った。それはどの人生の場面であっても日々の暮らしは、出会いと別れに集約されているように思える、それがさまざまな形になって繰り返されているのであって、それがまさに人生なのかもしれないなあと思う。ぼくだって日本に帰るといつも、簡単に資本主義経済の闇に没落してしまいそうになって、何が労働で何が仕事なのかおぼつかない状態になりかけることもあるけれど、はっきりしておかないと大変なことになることが沢山あると思う。多くの場合はそれが公共という概念と結びついているような気がする、私達日本人にとって公共とは一体なんだろうかと想像することは、かなり難しい。たぶんそんな概念がほぼ無いんだと思う。よく公共の場で「そんなこと」してはいけません。と聞く事があるけれど、たいがいの場合は「人様の前で」という言葉に置き換えられる。というのは、人に迷惑をかけてはいけない、人が不快だと思うことをしてはいけないと言うかもしれない。もちろんどこに行っても迷惑をかけていい場所なんかどこにもないと思う。ただしだ、そこでおざなりになっているのは、おそらく「人様が思うように振る舞いなさい」ということにいつの間にか変換されているような気もする。で、例えば「公共」を盗むことはできるか?ヘルシンキで聞いたら答えはNOだった。それは誰の物でもないし、盗む内容というものがない。市民の手でどんどん変化してくものだ。どうなろうとも皆の責任で、みな関係していくものだ。ただおそらく日本で聞いたらYesになるとぼくは思う。つまり公共の内容というものがある程度設定されているからだ。これは大きな違いなのではないかなあと思った。以前、イラクで拉致された日本人に自己責任と言った人たちには、きっと自分とは関係のない世界というものがあると信じられているからではないかと思った。そのことととても似ているような気がする。

[2010] ESITYS no.8 2010.1 / p.18-19

金曜日, 3 月 5th, 2010

interview by Tuomas Laitinen
text by Pilvi Porkola

隠された接頭語は「行ってきます、さようなら」でしかないような気がする

木曜日, 3 月 4th, 2010

最終的にひとは何を残せるんだろう、と考えると何も残せない気がする。残した気がしているだけで作品が美術館に所蔵されったて、アーカイブに記録されったてそんなのまやかしだとしか思えないと思った。そんなの事言ったら、誰だっていつもどこかで誰かと会って何かを話て、人に何かを伝えてちゃんと残している。そういうことなんじゃないかと思った、だからすべての物は消滅するという大前提のもとで生きていたほうが賢明なのかもしれないなと思った。ぼくは運よくほとんど物質的な作品を作ることがないので、そういうところでの葛藤というのを経験しないでいたけれど、考えてみれば当たり前のことでしかないなあ。ひとは誰しもいつしか死ぬという宿命から逃れることができないから懸命に生きよと説く人がいて、人は人と約束をして未来というのを作り上げとうとして、許すということで過去の責任から逃れるすべを差し出して生きているような気がする。東京にいたらよくわからなかったことかもしれないけれど、とても良く分かるというか納得できることだ。生きる為に活動することがすべてであって、くだらない労働に説得される必要はないということだ。生きるか、死ぬかのギリギリのところで苦し紛れに闘っているんだから、そんなことで時間を使うのは良くないいうのも、至極当然に理解できるし、未来に向かってしか生きることができない僕たちはいつだって隠された接頭語は「行ってきます、さようなら」でしかないような気がする。それを良くみんな本当は理解しているから、映画を見たりして感動なんかしたりしているんだと思う。

チェゲバラがあるインタビューで「あなたにとって革命とは?」と聞かれて「愛だ」と言っていたのを思い出していて、ロマンチズム過ぎるんじゃないかとも思ったこともあったけれど、これを「死について考えることだ」と読み替えるとすごくなっとくできるような気がする。ぼくは最近、愛は死について真剣に考え、行動し、話し合うことなんじゃないかと思う。だから、愛するというは互いの生命に責任を持つことなんじゃないかと思った、だから愛してない人と間に子供を作ってはいけない。そして、ぼくらの人生が常に「行ってきます、さようなら」である限りにおいては、常にぼくらは死に向かって歩いているわけで、ゲバラが兵士になる前は医師だったというのは根源的にゲバラはそれを知っていて、そこに関係しているんじゃないかと思う。だから、怖い時も、痛い時も、愛を感じた時も、同じようように自分の生命に対する死を感じた時にひとは泣くんじゃないだろうかと思う。

多少の問題がなければ本当に感動しながら生きて行くことがもっと困難なんだと思う

水曜日, 3 月 3rd, 2010

写真はなんとかうまく行きそうな感じがしていて、というはOliverという写真家に協力してもらっているからで、なんとか4×5での撮影もできそう。だけど、つくづく思うのはもうデジタル写真が本当に主流なんだなあと思う。当たり前だなんで、何でそんなにフィルムで撮るかと。Oliverもここ数年は4×5フィルムで撮影してなかったと。ぼくはなんでそんなにフィルムを使うかというと、フィルムが高価な為に一枚一枚神経を使うからであって、無駄にシャッターを切らないことがいいなと思っているからであって、デジカメになるとどうしても何度も何度もリセットが簡単で結局なにが撮りたいのか分からなくなることもしばしばある。それが嫌なのだ。だからきちんと、撮るものを設定できれば今日のテクノロジーならもちろんデジカメでも4×5に匹敵するようなものだって頑張ればできるだろう。ヘルシンキに来る前にデジカメの必要性がどうしてもあって、思い切ってSIGMAのDP-1を買った。これは良かったと思っている。というのは、すごく撮り辛い。オートフォーカスの動作がすごく遅い、感度が最低、Rawの保存転送速度が異常に遅い、レンズが単焦点固定で撮りにくい。書き出そうとするといくらでもあるような気がするのだけど、なんでこんなデジカメを買ったかと言うと、このカメラを購入したひとがほとんどそうだと思うけれど、感光部分が普通のコンパクトカメラよりも大きいからであって、なんとなくこれは4×5カメラに似てるなあと思う。コンパクトカメラなのに三脚が必要になる場面が多いと思うのもそのためだ。本当に変なカメラだと思う。気軽にスナップなんて撮れない。その憎たらしさがなんとなく面白いなあと思っている。もちろん苛立つことも多いけれど、問題がたくさんあるほうが付き合い易いってことかもしれない。ぼくはそういう人が好きだし、たぶんそういう人のことばっかり考えているのかもしれない。自分もそういった人のひとりかもしれないなと思うこともある。

いつだって僕は心配されながら動いてるなあと思う。ヘルシンキに来て、君のプロジェクトは問題ばかりで大変だなと皆に言われる。いつもレジデンスのスタッフに心配されている、にやにやしながら、ヨシノリのプロジェクトは大丈夫か?といつも訊かれる。日本に戻ってもたぶんいつもそうだ。展覧会をやろうとしても、大丈夫?大丈夫?って何回も訊かれる。いや大丈夫だと言うしかないのだけれど、その歯痒さのなかでぼくだって本当は大丈夫じゃない部分もあるのかもしれないのだけど、それをどうにか乗り越えて生きてきてなんとかやっていく。だいたい本当に大丈夫じゃなかったらこんなレジデンスでプロポーザルを採用してもらえないと思う。ぼくが思うのは、多少の問題がなければ本当に感動しながら生きて行くことがもっと困難なんだと思う。きっとそうだ。

1ヶ月が過ぎたところ

月曜日, 3 月 1st, 2010

不思議なことに、一人では約束もできないし、自分を許すこともできなから、他人というものが必要になると書いてある本を読んだ。キリスト教的な原罪の感覚をもって「悔い改めます」というのはどうもぼくにはしっくり来ないのだけど、なんだか分かるなあと思った。ああそうか、関係の中にしかそういうものの存在は認められないんだなと思った。というかぼくが考えるには、あらゆるものの同意というものはそういった他者の関係のなかでしかリアリティーがないと思っているから、いまさらびっくりもしなかった。こうやって旅をしていると、頭のなかを揺さぶられるような感覚になることも時々あって、時々自分が何ものかが分からなくなるというか、最初から分からないくせに、分かったつもりでいた感覚が抜けて、余計わけがわからなくなる。それは清々しこともあるのだけど、たいていは心地の悪いこともある。実はもうヘルシンキに滞在して1ヶ月になる、いままでにない貴重な経験をしているような気がとてもしている。というはこんなにじっくり作品のプロジェクトで大変なことも滅多になかったし、それにここに一人こんなに豪華に時間を使えることもなかったから、やや肩すかしを食らうこともあるのだけど、たいていは面白い経験として吸収されていく。かなり遅くなってしまったのだけど、いよいよ来週から具体的にプロジェクトの進行が進み出す。いや、実はこれは予定通りぎりぎりのラインで考えていたことだから、まだ焦ってはない。たぶんこの山場が越えられれば、あとは一気に動くだけだからたぶん大丈夫なんて考えながら、近所の安っぽいピザを食らった。スウェーデンから友人のアーティストが偶然、同じ時期に同じレジデンスに来るということが分かって、おお久しぶり!なんてパーティーがあるもんだから毎晩、曜日に関係なくパーティーがあったからやや呑み過ぎたかもしれないと思った。本当は好きな人に「好きだ」と言って一瞬で一生が終わってしまえれば、それはそれでいいのかもしれないけれど、現代ではそうもいかないのかもしれないと思うと面白い時代であるなあと思わざるを得ない。