Archive for 5 月, 2010

深夜の丸裸

月曜日, 5 月 31st, 2010

整理したいと思っているところ。何が何であって、何でなんなのか。そんなこと分からないからアーティストをやっている訳なんだけど、それ以前に今僕らを取り巻いている美術もそんな何が何なのか分からないという感じも払拭できないし、それは例え間違っていてもいいから、はい言いなさいという感じで言えということじゃなくて、ぼくは少し混乱していたから、少しだけ整理を付けたいと思っているだけで、それはきっと心情的なことなんだろうなと思う。当たり前だけど、僕の親は僕よりも早く死ぬ可能性がずっと高い訳で、当たり前なんだけど、その当たり前のこととどうやってやっていくのかということは、きっと思っているようにずっしりと重いんだろうなと思うことだけはできるから、こうしちゃいられね!って思うのは、至極当然真っ当なことなんだけど、それで草臥れてしまっては本末転倒であるから、今を精一杯生きようとするのはその反動としてこれまた至極当然なのだけど、そうも行かない。きっとぼくは昔から行き急いでいる。いや全然悪くない、好きな人に好きだというくらいにロマンチックな人生だ。この頃、近所のコンビニのおばちゃん(店長)に行くたびに話しかけられるから、調子に乗っていると今度は、ほかの若い店員までぼくに話しかけてくれて、よく分からないタイミングで疲れていないのに「おつかれさま」と言われたりして、なんだか面白いなあこの人はと思っているのだけど、そうか、「おつかれさま」というのは本当に疲れてるひとに言うじゃなくて挨拶だったのねとちょっと遅い理解をしていて、「こんばんは」が「おつかれさま」に変わるってことは仲間になったんじゃないかとと変な気持ちが芽生え始めてきて、おおそうか。それもいつも最近は夜中にレッドブルを買いに行くのだから、おつかれさまも間違ってないのかもしれないなと思った。ということで、個展用のプレスリリースの文章を書きながら、小躍り。ぼくたちはきっと未来しか行くことができないのね。

だから、ぼくももっと丹羽良徳

火曜日, 5 月 18th, 2010

なんだか今日はあまり機嫌が悪くないのでの、最近書いてなかった日記でも書こうかしらと思た。当たり前と言えばあたりまえのことだけど、芸術家というのは名前を世の中に出して行く仕事でもあるので、いつまにか僕知らないうちに作品が世の中に出回っているとのは良くあることだけれども、特にtumblrとかでぼくの結婚式の写真作品がどんどんreblogされていって、ぼくの名前とか関係のないところで写真画像だけがどんどん先行していっているのは面白いなあと時々検索したりして、眺めている。で、もっと当たり前だけど、作家をやっていると特に僕の場合かもしれないけれど、作品の以前にぼくの名前がいつの間にか知らないところで書かれていて、それは展覧会の告知だったり、こうゆう人がいるよとかブログで書いている人もいたりして、おおそうか作家なのだから当然じゃないかと左脳が考えるのだけど、いえいえそんなこと言ってもぼくはこうやって言えでコカコーラを飲んだり、くだらない冗談を言ったりして変な顔されたりしているんだよと思うとヘロヘロするのもいい加減にしないとなあと、根拠無く思う。男性にも妊娠のつわりというのがあって、妻が妊娠するのを目の当たりにしりまうと本当に寝込んでしまたり吐いたりする男性がいるらしい。それを思うと、目の前で起こっていることが現実的に自分自身に直接的に起こっている現象でないにせよ、例えば鏡のない世界で2人きりでずっと暮らしていると相手の顔が自分の顔だと思い込んでしまうかのように、自分とその自分が見ている環境との境が崩壊融合してしまうような感覚があるらしい。だから、ぼくももっと丹羽良徳という人間ともっと融合しながら、進んで行きたいなあとか何となく思ってしまうし、それでももってぼくの知らない人がぼくのことを語るという至極普通なのに不自然なこの状況を面白く感じる。当たり前のことを言うなと、言う人もいるかもしれないけれど、当たり前じゃないことなんてこの世の中にあるのかなあと、天の邪鬼的ことを思いつつとにかく夜になりました。結局、思い返してみると僕の作品も当たり前のことしかやっていないし、そういうことなんじゃないかと思う。なんだか最近、やや時代の流れが早いなあとしみじみ感じることもあってここ3年くらいで結構変わるもんだなあとか、あの頃は若かったなあとかちょっとおじいちゃんみたいなことも考えることもあるけれど、そんなこと考える前にいっそのことぼくをもっと追い込んだ方がいいのかもしれないし、センチメンタルに浸っている場合でもないかもしれない、必要なのはいかに死ぬかという結論だけに向けられるべきかもしれないというと、それこそ感傷的すぎるだろうか。でも、語られることは少ないかもしれないけれど、芸術家だっていつか死ぬしその脅威というか人間の生命体としての時間的物質的サイズからは逃れられないという現実がやっぱり制作のモチベーションとして確保されているという事実は外せないわけで、そんだったらいっちょうやってやるかという気分である。

死んだら終わり

木曜日, 5 月 6th, 2010

死んだら終わりだというのがどうも頭が離れないでいるのが、とんでもなく面白い予感がしている。というのは、結論だとか結局だとかその終わりの部分が何なのかということのひとつの回答かもしれないのだけど、死んだら何もかもが終わりなのだ。その意味においてぼくのやっている美術は有効なのかどうか、この問いにぼくは全く歯が立たない。それは当たり前だとか、そんなこと言ったらもとも子も無いという声もあると思うのだけど、その当たり前でもともこもない必然性に感情で立ち向かうというのは、丸裸で戦場に向かうようなものなのだろうか?それはぼくにはまだわ分かっていないし、そのレベルで物事を捉えようとするのかということかもしれないのだけど、美術や芸術だってそれを鑑賞する観客に伝わって初めて成立するものだけれど、その伝わり方というのはどのレベルで行われるのだろうかといつも考える。つまり、それはコンセプトや概念と言われるような意味のレベルでしかないのか、それとも行為のおける動機や勇姿なのだろうか。ぼくには両方が互いに密接に結びついているものはどうしても必要だなと思っているが、どうしても意味のレベルでしか観客には伝わらない場合がほとんどなのかもしれない。ただし、このぼくの考えるいることは作家側の考えとして留めておくべきかもしれないのだけど、でもそう考えるのもなんだかやや物寂しいというか、私は○○だ!あなたとは違うぞ!と言っているような気がしてなんだかあまり好きになれない。そう好きになれないということを、どう処理すべきか。これはとっても大きな課題かもしれない。当たり前だが、合理的に物事を進める場合には個人的な感情を持ち込むはかなり危険であるが、感情のない行為は誰にも相手にされる訳がない。その離反する現象を同時に行わなければいけないのだろうか。それとも他の路があるのだろうか。いや、合理は捨てるべきだ。そう感情を説明すべきだ。その努力が結実しえるフィールドへ出向くべきであって、何も感情を感情的だと言って嘆くだけで死ぬ訳にはいかないのだ。当たり前だけど、合理で恋人を愛すことができる人はいないと思う。ただし一番危険なのは、死を説明し出すひとかもしれない。