Archive for 6 月, 2010

火曜日, 6 月 29th, 2010

歯が痛い。フィンランド行くまえに応急処置していた虫歯が疼き出したようで結構痛い。正直にど真ん中の奥歯の虫歯だけど、歯医者に電話したらちょっと笑われた、というかぼくが笑ってごまかしたから笑ってくれたけれど、予約でいっぱいだったから週末まで痛いのが続くかもしれない。と思うと、愛さないと愛してもらえないんじゃないかと全然関係のないことなんかを考えながら、電話を切った。そう前々関係のないことをふっと繋がりを見つけ出してくるその瞬間にぼくらは生きているのかもしれない。それが信じられれば人生が変わるってものだ。その一瞬を探して彷徨いながら生きていると言っても過言でないと思う。見ないフリで生きて行くこともできるのだけど、そうじゃないんだと大声で叫びたいという気持ちをどこかで発散させないとこりゃもう駄目だなあと感じることができれば、きっとぼくはもっと真剣に生き抜くことができるのかもしれない。とにかく今は個展前の大詰めの打ち合わせも控えているのでせっせとビデオの編集とか樹木の確保とかいろんなことをやっているんだけど、暑過ぎて困っちゃうなあと思っている自宅では扇風機で何とか凌いでいるのだけどそろそろ限界も見えて来そうだなあと思っている。暑過ぎるという問題の前で解決策が扇風機しかないという現状に対して、それをクリアしたところに何があるかなんて何にも感じてない自分が腹立たしいと思う。まだ歯が痛い。

たまご

月曜日, 6 月 28th, 2010

Macのデスクトプ画像に市川実日子さんの写真をずっと貼付けていたのだけど、ふとファイルをたくさん放置していたら、目の部分がうまく隠されていて、目隠し美人になった。これを見ていると、もしかしたらぼくはこの顔の輪郭が好みなんじゃないかなと思ってしまった。この卵みたいなつるっとした感じがもしかしたら、無意識に好きでいたのかもしれないと思う。茹だるような暑さのなかでクーラーも当然ないぼく家は、サウナのような外気よりもずっと高い気温を維持しながらもなんとかぼくは生活しているのだけど、ちょっと心配なのは、Macがこの暑さにやられはしないかと思っていること。時間の流れには逆らえないからぼくだって、いい子ちゃんぶっていたりしている。ようやく去年購入した扇風機をひっぱり出して来て玄関から家いっぱいに風が回るようにした。それでも珈琲だけは飲みたいから熱い熱湯を沸かしたりもしている、と思えばもう2010年の7月だったりする。これまでどれだけの人に出会ってきたんだろうと思うのは、センチメンタリズムと言うのだろうか。そしてその人たちとちゃんと関係を結ぶことができただろうかと考えることがある。思えば条件付きだが無限だと想定されている人間の可能性のなかでぼくは何を選んでいるんだろうか。それはさておいて、なんとなくかれこれここ数年厭がおうでも未来のことばっかり考えている。それは当たり前という形容詞で表現されるべきかもしれないが、自分のみっともなさとふがいなさと、いやこんなはずじゃなかったという淡い思いと大丈夫だという自信とが混在しながらも、夏なので汗なんかかいたりしている。人は結局科学よりも宗教にはまるというのは、とても自然なことだし、これからどうなるのよ!というのを誰かに囁いてもらいたいと思う心情は馬鹿にできない。ぼくも好きな人ができたら一緒に月にでも行きたいと思う。くだらない奴だなあと思われるかもしれないが、それが人生だと思う。

淡い本当

木曜日, 6 月 24th, 2010

人生淡い期待でも持ってないと生きて行けないというのは、当然のことでその度が越すと、あの人はとんでもでもないとか言われたりするということを考えると、人生の殆どのことはどうのこうのあっても大抵は物事をどのレベルで感じとるかという問題なんじゃないかということに落ち着くこともできる。つまり、本当だとか本気だとか誰にも分からない言葉で極限を示すことはできてもその本当って具体的になんなのかって誰にも分からないし、その本当の状態ってたぶんすごく怖いものなんじゃないかとも思う。「本当に」って良く日常会話でも使う言葉でもあるのだけど、その言葉でこまでも行けるなあと良く思う、でも実際に東京でみんながライフル持って闘っている状態でもないと思うと、その本当っていうのもどこか亀の一息で忘れてしまいそうな紙切れな気がする。でも、淡いとか甘いとか雨とかあそことか、「あ」で始まることはなんだか幻想的でいささか、その心情的なところに本当が隠されているのかしらって思うこともできるので、今日は良しとしよう。そうだ、明日が来たら明日は今日と呼ぼうってね、そんないい加減な人生がたぶん本気を呼び覚ませるのかもってね。

くるま

月曜日, 6 月 21st, 2010

いまちょっと気持ち悪い。精神的じゃなくて、肉体的に暑過ぎて部屋が茹だるような暑さのなかで煮えたぎるように気持悪い。というのは当然のことだけど、夏の始まりというのは何歳になってもロマンチックであるに決まっている。これだけ暑いにも関わらず、珈琲というのは一度沸騰した熱湯を作らないといけないというジレンマがあって、しょうがないからそのまま熱い珈琲を飲んでやる。最近はよく電車のなかで夢を見る。たった10分そこらかの移動時間によくも器用に夢を見るものだなと思うのだけど、それくらいの夢うつつの中途半端な時間のほうが夢を見てしまうのかもしれないし、そえにつけても疲れているかもしれないが、それでも器用に降りるべき駅に来るとちゃんと起きるのだ。これはどうも不思議で、ぼくはこれまで目覚まし時計というものが苦手で信用できないから、目覚ましは無いのだけど、時々携帯電話のアラームをセットしてもそのセットした5分くらい前にちゃんと起きてしまう。というか、おそらく自分の体内時計のほうが信用できるとでも思っているのだろうか。ということでぼくは何かにつけて物に信用がおけてない。

暮らし

月曜日, 6 月 21st, 2010

名前は知っているけれど、実際には知らないという街に行くということは、きっと知っているという言葉の多重生を考えるうえでとても有効なのではないかと思う。というのは、きっとぼくたちが知っているという言語を様々なレベルで使いわけながら生きているわけで、それも当たり前のことなのだけど、すべての言葉の示された意味の内容においては文脈によって左右されるわけで、その文脈というものが言葉を読み解く主体者によってどんどん変化していくことも当たり前のことながら、その功罪というのはインターネットにも一理あったりするというのがぼくの考え方で。というのは、googleはありとらゆる情報を検索という文字入力によって得ることができる反面、言語でなければ検索できないという不便さも持ち合わせていて、なので最近は音声検索とか打開策もできているのだけど、当たり前なのだけど、そえれも情報の一種であることにはかわりなくて、情報でさらなる情報を引き出すという一種の装置であって、だからなんなのかは分からないけれど、ぼくたちは一種の錯乱状態に陥っているにも関わらず、その状態であることも知らされずに生きている。つまり、すべての事物のレベルを統一しながら語ることは不可能であるので、哲学という現場においてはレベルの限定によってまたは文脈の限定化においてのみ語り始めることが可能である。ということを考えると、ぼくたちは理解そして納得できるという物語というものは、もう存在しえないのではないかという思いによってのみ、さあ生きてみようかなという決断ができるような気がする。

今日は千葉まで行った

日曜日, 6 月 20th, 2010

ぼくが何でこんな奇妙な文章を書いているのかということは、かなりの部分で自動記述的に書きなぐっているのだ。その自分自身でかいた文章にみごとに自分自身を放り込んで、飲まれてこんでしまうことで、今の自分を越えようとする営みなのかもしれない。なので、あとで読み直すと意味が分からないことが結構多いのだ。それはそれでいいと思うし、理論や解説を求める場でもないと思うので、そのあたりはご愛嬌といった感じだろうか。それよりも意味の通じないへんてこりんな言語から新しい生きる糧を掴み取るほうが先決なのだ。ということでぼくはいつだってとんでもない用法によって言葉を紡ぎ出しながら、言霊を操作しているのかもしれない。そういった言語をひとつの意識ある主体として付き合いながらやや距離を置いたところで俯瞰しながらも、そこに飲み込まれつつあるという状態なのだとお思うことにする。哲学は計画でしかなく、その効果は歴然として判然とはしていないという歴史的な要請によってぼくたちはきっと生きることを予言されている。さらにいえば、死ぬ5秒前に一体ぼくらは何をしようとするかとうことだろう、それはきっと誰に気付かれないままに死んでいくのかもしれない。果たしてこの人生にぼくは何をするのかということを考える限りにおいては、犯罪さえも自由なのであるが、それは罪の償いと謝罪と後悔の念という途方もないエネルギ−を背負わないといけなくなる。どこまで説明すれば説明したと言えるかという命題に対して結論は出すことはしないほうがいい。いつまでも未回答という不利な状況を受け入れるべきだ。現代においては境界が大きな問題となっていることは明白のことだが、その原因として財産の私有化制度導入が大きいとぼくは思っている。

間違いを侵しつつも分かっているよっていいながら全然違う

土曜日, 6 月 19th, 2010

ぼくは単なるロマンチストなのかもしれない。と思ったのだけど、その単なるっていうのがどうにも気になっているので、単なるだけじゃないんじゃないかと思った。ぼくが今日寝坊した時に待たせてしまったそのひとは、泣いていたそうで、ぼくが原因で泣いていたわけではないのだけど、なんだか可愛いなと思う節もある。それはきっと危ないことの始まりかもしれないが、ふと知れずに引き摺り込まれない限りは放ったらかしにしたい。ということで今日も時間がないままに終わってしまい少し悔しい気分なのだけど、それでも明日がある限りにおいては、まだ救いようのあるような人生かもしれないと思うしかほかない。ということで明日は千葉へ撮影に向かうのだけど、この調子だときっと雨だろうと思うとやや心配でもあるのだけど、正解なんて存在しないこの世の中で生きていくためには、たぶん滅茶苦茶な回答をしないといけないような予感と気分を持ち合わせているから大丈夫。間違っていることを正しいのだという屁理屈を言う大人が好きだ、きっと。正しい人が正しいとは限らないということは、間違いなくぼくはそうだと思う。議論なんてまっとうにできないくらいに、道を踏み外してしまったような次元で言葉を拾ってこれれでばたぶん幸せかもしれないのだど、それはそれでとても危険でもある。その回答を一次的に判断できるのは、コンテクストという日本語でいうところの文脈とどの次元で物事を語るかというフレームだけしかないと思う。それはきっと正しい。だけど、その正しいところにずっといるのかどうか、間違いを侵しつつも分かっているよっていいながら全然違うことをしてやろうと企んでいる馬鹿なひとのほうがぼくはずっと可愛いと思う。

夢の中で展覧会を企画する

金曜日, 6 月 18th, 2010

ぼくが寝ている間だけ行くことができる展覧会を皆の夢のなかで企画するのだ。全世界の人々の夢の中をひとつに繋ぎ合わせて夢という実体験の中に見えない展覧会を企画する。もうこうなったら夢の中で展覧会をやるしかないんじゃないろうか。現実的な世界のなかでぼくたちはどれだけ、物事を動かしているんだろうか、何を得て何を共有できているんだろうか、果たして本当なんだろうか。ロシアって本当にあるの?沖縄って本当にあるの?こんなことを言うと人格を疑われるかもれないけれど、ぼくは行ったこともないから、全然知らない。よーく分かった、知っていることを全部繋ぎ合わせて現実社会を再構成すればいいんじゃないのかしらって。

今日の作業日誌

金曜日, 6 月 18th, 2010

徐々にだがぼくの意識は夏秋そして年末に向かってきている。っていうのは、やや遅いのかもしれないのだけど、今年も多摩川でバーベキューでもしようかしらって思う。ようやくカレンダーが2011年になったというのはぼくの机の上の話であって現実的にはいまだ2010年だったりする。いつの間にか、暗闇の映画館のなかで一生を過ごしてみたいとか勝手な妄想を考えたりしてもなんの意味もなかったりするので、どうにか生きていかないと生けないという真面目な回答とそれを上回る質問をしないといけないと思う。たぶん真面目に生きるということは、至極ふしだらなんだじゃないかと思ったりしてもなかなか人には伝わらない。自分の人生がいつだって自分の中心にしかない限りにおいては、何だって言える。そんな身勝手な人間でいいのかということも思うのだけど、じゃあ何があるのよ、って思う。判断だとか言葉とかいつのまにか吹き飛んでしまいそうな亀のひと吹きで消える言霊なんかじゃ駄目だ。芸術にのめり込んでしまうとそんなことも思うのだけど、誰かが芸術家は左翼だとか宗教だとかに嵌り易いと言うひとがいた、ああこれはぼくのことじゃないかと思う節があったのだけど、人は人のことを何とか言って、人は人のことを思って生きているんだなあと思う。回り回って人は自分と他人の中に共通点を見つけようと知らない間に努力していて、それであーだこーだって言うんだなと思うと、少し嬉しくなる。そこになんの何もないような気がする。それがいいのだ。今日の作業日誌はこんな感じ。

大変だね7月の会

水曜日, 6 月 16th, 2010

いつもよりも早起きしようとしたつもりが、逆に寝坊してしまって起きたら8時。もう手遅れなので、ゆっくり電車に乗るといつもよりも混んでいた、という平凡な朝を潜り抜けて帰宅したらもう3時。展覧会の為に樹木を移植する為に植木屋さんと相談と鳥の巣を撤去するために自動車学校とレンタカー屋さんとちょっと電話相談ばっかりで日が暮れてしまった。ぼくの机から見える風景は何も変わらないけれど、きっと時間だけがゆっくり過ぎていくのって誰かが囁いているような感じだった。そのあとでよくわからない韓流のドラマをいきなり見てると女性がジャージャー麺を食べていた。ウェンツとベッキーの対談というのがあって少し見ていると、ベッキーが嘘泣きで誤摩化しているのを見てウェンツがそういうのは真剣に辞めなって言うのが案外面白くて、いやこれは結構いいかもなと勝手に思った。展覧会まであと一ヶ月少しだからそうも言ってられない状況だんす。3つも4つも同時作品なんて作ったことがないから、大丈夫かしらって自分自身で思ってしまうけれど、仕方がないんだな。キーとなるのはきっと体力だろうと思ってるから、なんとかなるだろう。さーってもう少しまとめますか、と思ってるけれど、気付けば毎日まとめているような気がすのは僕だけなんだろうか。ということで少し頭の整理を兼ねて、以下今週中に解決すること。

1.千葉県までカラスの巣を鳥に伺う
2.3mの樹木2点を確保する
3.ネオンサイン設置許可と見積もりをもらう
4.アーティストブックvol.2を作り出す
5.ルーマニア行きの助成金申請する
6.新しいレジデンスのプロポーザルを作る
7.映像作品を作り出す
8.手紙を書く

時間があるようで無いのだ。きっと。夜風に酔ってる場合でもないのかもしれない。

演技と現実の境界線

火曜日, 6 月 15th, 2010

誰が何を言ったのかもう思い出せないのだけど、たぶん天の邪鬼的な発言を聞いて、ああぼくもそうだな天の邪鬼なのだなあと思いながら夜中の線路を跨いでスーパーに行く途中に思い出した。川上未映子が、なんで死に一歩近づいているのに誕生日なんか祝うのよと言っているのを聞いてそう思ったんだと思い出したのだ。ぼくも分けも分からずに反抗しているのだったらまだ反抗期かしらって思うのだけど、それもそれで仕方がないなあと思うと少しだけ寂しくなるし、梅雨の夜更けはそんな気分でいっぱいだし、30歳に近づいている最近でもそんなこんなに折り合いが着かないで挫けそうになるのも当然なことだろうと思うのも、楽しいかもしれないが、もしかしたらこのままどこか見知らぬ土地にでも失踪してしまおうかしらとふとした瞬間に思うのは、人間だれでもあることなのだろうか。ニュース番組で惑星探査機ハヤブサの地球到着を喜びながら、大きな物語が共有できないこの頃ですが、私はこので出来事で皆でひとつのことを共有できたと思うと嬉しいです。感情移入してしまいますとアナウンサーが言っていたのを聞いて、なぜかぼくはこのアナウンサーが好きになった。何が言いたいのかというと、天の邪鬼的な感情と素直に好きだと言いたい感情がぼくの中で複雑にもしかしたら至極シンプルに揺れ動いているのだ。それはきっと、おそらく上手に断絶されていて、混ざることもないままにその時々にふっと起きてしまう事故のような出来事なのだけど、まして多重人格のように現れるかもしれない。夕飯を食べるひとときの時間だけテレビを観る習慣がいつのまにかできてしまったので、仕方がなくもしは好きで見ているとオリエンタルラジオの中田君が出ていて会ったこともないけれど、クイズ番組に出ていた。そのなかで他のゲストが「こいつはネクラだから」という意味の発言をしていて、へーそうなの。って思ったんだけど、そう見ればそうも見えなくもないけれど、それも通常の精神状態でそれもテレビでそういうふうに言われて大ジョブなんだろうかと勝手に思った。それに自分のことを言っているんじゃないかと思えてきて、そうか、ぼくも初めて会った人には人懐っこいとか言われる可能性もあるけれど、たぶんネクラなんじゃないかと最近思うようにした。そのどっちがどっちでもいいのだけど、人が持っている印象とその本人が抱えている感情はやや離反しているんだなと思うこともあって、そりゃ当然だなと思った。2003年の市川実日子が出演している映画版のキューティーハニーを見て、映画の演出としての役柄なのだけど、秋夏子(市川実日子)は他人との距離を置くことによって強面の人間を演じてきたと言われる台詞があって、そうだなぼくも演じているんだなと思うし、たぶんほぼすべての人が人生を演じ切っているんだなと思うと、その演技と現実の境目があやふやに思えてきて至極困ることがある。たぶん今日この頃思っているのは、物事の境界線の話なのかもしれない。たぶん、脳科学者の話だったと思うのだけど(眼科医の話ではない)目が見えるというのは脳が見えていると判断しるだけのことなので、目が見える/見えないの境界というのは結構あやふやなのかもしれない、というのを聞いた。視力を回復させる為にはトレーニングで回復させることもできる、つまりピントが合う(合わせらるか)かどうかのことらしい。

そう考えるとさらに奇妙な現実というものが明るみに出て来たようで少し怖い気もする。でももしかしたらくだらない言語の遊戯かしら。って思うことにしよう。

子供

木曜日, 6 月 10th, 2010

ここにおいで、目の前においでと歌う人の歌声を聞きながらなんだか、刹那的な人生の一瞬一瞬が死んだら終わりという究極の結論をかわしつつ存在しているんだなあと思ったりするとなんだか急に青春な気分にもなったりする。当たり前だけど、僕たちは未来に向かうことしかしできないし、センチメンタルに陥ったりしても何にも誰も助けてくれないのだから、必要なのはその気持ちを誰かと共有することだけかもしれない。基本的な考え方として、何も分からないというと至極いい加減な人間と思われるかもしれないけれど、ぼくにはそこに愛を感じたりもするし、当たり前だととも思う。どこにフレームを持っていくかという問題だけなような気がするし、あらゆることが相対的にしか存在してないということを考えればあながち、嘘でもなさそうである。でもそればっかり、言っていても何も始まらないから、ぼくたちは常に何かを始めることを要求されていて、しかもそれに追われたりしているうちに人生が終わっていく。悲しいかもしれないけれど、終わる為に始めるわけであって、いやぼくは悲しいとは思ってはいないけど、避けることができない最大のイベントのことだと思っている。それは誰だって逃げ出すことが不可能だし、死ぬことは当然のこととして受け入れられるべきだし、そこに人間の弱さがあるのも当然のことだ。だからぼくたちは新しく子供も産み育ていくのだと思う、ぼくが言うのだから説得力もなにもかも無いかもしれなけれど、現時点ではそう思う。人は人を産み出すということだ。それは人間が個人で越えることのできない死の問題を共同体的に越えていくひとつの発想だと思う。いやこれは歴史的な発想なのだと思う。

10年前

金曜日, 6 月 4th, 2010

αMギャラリーの個展のプレス用のテキストを書きながら、ああもうすぐだねという適当な感想とビデオカメラが壊れているので、新しく買い直さないとなあということを頭の片隅に起きながら、キーボードを連打。今日はそれにしても良く晴れていて、秋葉原まで行く元気もなかったので、諦めめて新宿でビックカメラでビデオカメラの値段を調べてみると、うんとまあ高いので、これじゃあ新品は買えないなあと思った。それにしても旧モデルの売れ残りはどこへ行ってしまうんだろうか、新しい製品がでてくることに旧モデルがなっかったことのようにされてしまうんだけど、探してネットショップで替えばいいんだろうか。そうもうminiDVのヴィデオカメラなんて時代遅れなので、探すのも難しいし未だに出荷されている機種も少ない。もしくは輸出向けの海外モデルはまだminiDV機種を作っているらしいが。そうぼくはminiDVよりもHDが欲しいんじゃなくて、安いものが欲しいだけなんだということなら、ヤフオクを探せばいいと思って買った98年つまりもう10年以上のモデルを買ったら音声が壊れていた。これじゃなんともならいから、ぼくはもうちょっと足で稼ごうかしらと思った。アーティストいうのはどんな職業なのかいまだに分かってないのだけど、もっと間違いだかけの言語で意味不明になってしまうような危なっかしい人生でもいいのかしらって思うこともあるのだけど、そうもいかねえって言う人もいるから、それはそれで骨がボキボキ折れてしまう。主観と客観の関係性がまだぼくはうまく掴めていないというか、それはそれでうまく掴み取れ過ぎているのかもしれないと思うことがあって、主観なき客観というのは存在しえるかいう問いにぼくはNOだと思っているし、つまり絶対主義的なことを否定しながら、相対主義でしか人間は世界を認識できないんじゃないの、って思っているからで、だって死んだら終わりだよ。そうなんじゃないの?って小学生みたいな疑問を未だに解けずにいる。いいね!

[2010] 美術手帖2010年6月号 - 特集「新世代アーティスト宣言」

木曜日, 6 月 3rd, 2010