Archive for 7 月, 2010

芸術活動と呼ぼう

水曜日, 7 月 28th, 2010

暑い暑いと言ってももうかれこれ27回目の夏を迎えるわけなのに、未だに暑いと言わないといけないというのはどうゆうわけか。いや簡単なことなんだ。暑いというのは限界ではなくて通過地点だということだ。だから言えばそれで済むんだ。それで少しは救われるということを皆知っているからこそ使う言葉であって意味を伝える会話ではないのだ。ぼくは作品を作っているのではなくて、人生というフィールドにおいて作品なき芸術的実験を行っているのかもしれないということだ。それはもっと考えるべきことであるかもしれないし、突き詰めることでもある。その判断によっては今後の成り行きが大きく変わってくるということだ。そう皆分かっていることしか分からない。いま、僕の友人がぼくの芸術家活動に関する文章を書こうと必死で動いてくれている。その勇姿を無駄にしない為にもぼくはもっと必死に生きるべきだなのだ。BはAがあったからこそ発見できる出来事なのだ。

何もかも始まったばかりのことである。苦し紛れに自分の感じることを実現させるのみなのだ。何度も言うが死んだら終わりだ。物は壊れるし、時代は変わるし、人間も変わる。真理もまた覆されるのであるから、ぼくたちは必死で生きるだけなのだ。そこには何の障壁もないはずで、僕らはいつの時代にも先の見えない最前線を前衛として生きるという使命を課せられた歩兵隊なのだ。撃たれて死ねれば幸福なのだ。そこにふっと現れる人間の関係性のなかで見えそうで見えない些細な感情を掬い出そうとすること。その活動をぼくは芸術活動と呼ぼう。

ぼくは江戸時代には生きていなかった

火曜日, 7 月 13th, 2010

ここにきていやはや、何のことなのか何で生きているのかちゃんと考えないと生けないぞと悪魔の囁きが聞こえてきそうである。つまり忙しい時こそ自分の精神に準じた行動が求められるということなのだが、そんなの分かってるよと言わないまでも肝に命じたい。そうこれが、ああもしかしたらあれかもしれないという時間である。考え見ればぼくはそして多くの人々は周りの人々に支えられて生きているわけで、その支援無しには生きられないというのは明白の事実であり、そのこと以外にもう頭にないわ!ということでぼくはたぶんパフォーマンスアートを始めたのだと思う。つまりぼくは何かをオリジナルなことを創造するのでなく、見なかった僕たちの時代のなかの何かしらの形態無き関係性を導き出す作業によって生き抜く作法に殉じるのみである。だから何のかと言われても答えがない。ぼくらはもう生きる為の方法を自分たちで作り出さないといけない時代に生きているのかもしれないし、昔からそうだったのかもしれないが、つまりそういうことだ。誰だって死んだら終わりであるし、生きている時間の有限性の時間の中でしか物を感じることができない。ぼくは江戸時代には生きていなかったし、2100年にも生きていない。そういうことだ。

今の状況を忙しいちゃんと呼ぼう

月曜日, 7 月 12th, 2010

もしかしたら今週が山だなあと思うがまだ右手が腱鞘炎だ。

痛みはいつから痛いか

水曜日, 7 月 7th, 2010

実は今腱鞘炎になりつつある。痛いという感覚はとても重要な感覚のひとつで、もしこの痛みというのが認識できなくなたらぼくたちは簡単に死んでしまうのだろう。怪我をしてるのも気付かず、血が出ているのにも気付かず、骨が折れているのにも気付かないと大変なことになる。だからこの痛みは進化の中で一番原始的で且つ重要な役割をぼくたちに与えてきたんじゃないかと思う。これは自分への危険信号と同時にそれを回避せよという命令であると同時に生きることへの挑戦なのかもしれない。そういう意味で鎮痛剤とか麻酔は危険な薬であって、使い方を間違えると取り返しが付かなくなる。僕たちは日々痛いか心地よいかそのどちらかを移動しながら生きる方法を探っているし、たぶん痛いものは選んではいけないという教訓を人類には刻み込まれているんだと思う。だから血がでると痛いし、転ぶと痛い。痛いことは死に近づくことだから辞めろと警告されているんだと思う。それがなぜ痛いのかは究極の謎かもしれないが、たぶん生命の数十億年の歴史の生命保持の為に好ましくないものは痛く感じるようになったんだと思う。そう思うと、痛みでさえ歴史的に記憶の産物として認識されているんだなあと思うと、不思議な気分になる。

何を僕たちは得ているのか

火曜日, 7 月 6th, 2010

1日のなかでかなり割合でお金のことを考えているというか、お金そのものに踊らされている感じでもあるのだけど、致し方なく仕事をしたり、お金の計算をしたりしているうちに人生が終わる。結論を言えば、お金はだれ物のでも無いということた。その証拠に、ぼくが銀行に預けたお金をその銀行はぼくの了承なしに人に貸し付けているのだ。こんなの当たり前じゃんかよ、と言う人もいるけれどぼくにとってはこれは大きなポイントであって、つまりぼくは1000円札を握り締めたっていつまでのたっても僕のものにはならないで、どこかへ逃げてしまう存在でしかないということか。銀行に預けたりしても勝手に知らない人に渡ったりする。ぼくの物だ!と言って名前を書いても無効にされる。そう、誰のものでもないんだからつまり共有財産的なものなはずなのに、お金が無くて困る人がいたり、沢山あるひとがいたり、それは自由経済のなかでは仕方がないことかもしれないのだけど、その仕方がないことで生きていくのにはやや酷いこともあったりして、また一喜一憂したりする。その内に人生が終わるのかもしれない。誰だってお金が欲しいのだから、頑張って働いたり、儲け話に騙されたりして本末転倒な人生を送ったり、よくわからないキャンペーンに乗せられて人生が終わってしまたりしている。この前、電車に乗っている時にみたFX会社の広告では、ある条件をクリアすれば会員全員に資金の年率15%の2ヶ月分をプレゼントするというキャンペーンだったのだが、ぼくにはどう考えてもこの意味が分からなかった。何故、会社が会員にお金をあげるのか?銀行の利子も同じことだ。ぼくには良くわからない。そりゃあ、誰だって少しでも1円でもお金が欲しいと熱望しているのだから、もらえればそれでいいのかもしれないが、何であげる?それでその会社の人気が出るのかもしれないが、何を僕たちは得ているのか。

ミュージシャン

土曜日, 7 月 3rd, 2010

夜更けに西新宿の駅前を通るとよくストリートミュージシャンというのが演奏していたりして、なんだかその観客を含めた風景を観ていると、少しだけああここが地球なんだなあとか思ったりする。人間がいろんなことに困ったりしていて、いろんな人が助けようとしていてそれでもうまく行かないで滅茶苦茶になったりもして、それでもラーメンの屋台とか手相占い師とかストリートミュジーシャンとか登場したりする。1日の中で夜というのはとても大切な時間だ。この時間に働いているひともいるけれど、ほとんどの場合多くの場合、ぼくたちはこの時間に好きなことをすることになっていて、それは完全に自由なのだけど、たいしたこともできずに泣いているひともいたり、家でのんびりしていて幸せを感じているひともいれば、孤独で挫けそうになって飲んだくれるひともいたりして、それはもうお昼のランチタイムとは対照的な赴きでぼくは好きだ。 だからなんだと言われてもなんでも無いのだけれど、そういった人生のタイムラインの違いにおいてぼくたちは一喜一憂しているのだなあとことだ。結論はない。考えてみれば、ぼくたちは成長することを物理学的に要求さえていて、その極限というのは老いであり、死であるのだけれど、その成長の段階のなかでしか僕たちは自分を捉えることすらできないという歯痒い生き物でもあって、つまりぼくは小学生であった時期もあり、中学生であった時期もあり、高校生であった時期もあり、大学生であったり、老人であったり、赤ん坊であたりするという変幻自在の夢遊病のように様々な様相でこの世の中というのをウロウロしているのだ。ということは、何も他人に俺様と言う必要もなく、へこたれそうな人間以外の何者でもないという事実だけが残るんだろうと思った。

生きている瞬間のみが生きている証ならば、とても幸せな気がする

木曜日, 7 月 1st, 2010

首が限界なのかしらって感じにどこかに寄りかかりたい気分でいっぱい。というのは昨日15分しか寝れなかったからでそのあと打ち合わせなどが入っていて気を抜けなかったからで、だから何だと言えばこんなブログなんてかいてないで早く寝ろよって感じなのだ。ついでに目頭もかなり重い。但し精神的にはレッドブルを飲んだ如く冴え渡る晴天のように活発であって、それを良いことにこんなところで文章をかいている。今朝は早起きして幡ヶ谷へ行き、お昼には上野まで行き、そのあと杉並へ行き、四谷へ行き、日本橋へ行きヘロヘロ。くたばって溜まるかと車が猛スピードで走っているのを見てぼくは、この世に生まれてきたことの幸福を感じながらも、それは言わないでにやにやしているとみんなに笑われる。ぼくの作品を観た人は何故かぼくのことを破壊的な人だと思うひとが多いらしく、少し困っているのだけどそれも仕方がないのかしらって思う。生きている瞬間のみが生きている証ならば、とても幸せな気がする。今日はもう眠い。