Archive for 8 月, 2010

その違いが分からなくなるのだけは厭だ

月曜日, 8 月 30th, 2010

電話で「文句がある」と言って呼び出しておいて、好きだ!と愛の告白をするなんて夢のようなことを考えながらにやにやしていると夜が暮れた。正確には時間が経っていて日付が変わっていた。なんて言うののもまんざら嘘でもなくて、本当かしらと思うのも当然だけど、僕には嘘と真実の境目がよくわからない。でもこんなことを言う大人なんて信用できないと思われるかもしれないが、ぼくはそんな大人の方が素敵だと思う。どんな違和感だって直感的に感じたことを包み隠さずに濁さず恐れず間違いなく正確に取り出したならば、それはきっととんでもなく違和感なのだから可笑しいに決まっている。そんな毎日のなかで良くも精神異常にならずにやっていけるものだ。そのぼくらを支えているのものは、きっと周りにいる人々の声援であったり罵倒であったり愚痴であったり戯言であったり嘘であったり真実であったりするのかもしれないが、きっとぼくらはそれらをイッショクタに混同しながら生きていると思う。ドイツの森の中で目の真前が見えずに湖に落っこちてしまった時もそんなことを考えたような気がする。死んでしまったらこの日本が資本主義だろうと社会主義だろうとどっちでもいいのだけれど、生きているうちはそれは問題だ。その違いが分からなくなるのだけは厭だ。

苦し紛れにハンバーガーを購入しているに違いない

土曜日, 8 月 28th, 2010

マクドナルドで店員さんを見つめてみたら、そのあとで何度も見つめ返された気がしてならなかった。というのは、「気がしてならなかった」の域を出るものではないので、これ以上の確認を取れないのだけど、そういった勘違いから始まることも沢山あるのだろうとぼくは思う。だからと言ってその店員さんと何かが始まるというのはちょっと早合点なのだが、物事の始まりというものはそういうものだというととても納得のいくものである。というかそうあって欲しいという願望がやや含まれていることも留意して頂きたい。そしてまたぼくらは日々心の底では、社会転覆を可能にする革命を欲しているのだ。それに殉じるかそうでないかだけの違いであって、まったりと夜空を眺めている夜だとしてもぼくらは次の日の変化を待ちわびているに違いないのであって、だから退屈は厭だとか嘆くだけのことだ。つまりぼくらは目前に迫りくる怠惰な日々の日常批判の地平からのみ生き返ることが可能であって、その意味では人生とはネガティブアプローチである。逃走するのみである。苦し紛れに粉砕する右手が痛むのならば、それも一興であるに違いない。ということは、既存価値観の破壊とその書き換えによってしか生き延びれないという運命であるならば、思い切って全否定にのみ希望を託したいと思うのも納得できる気がする。ぼくらは、常にマクドナルドの店員さんに殴りかかりたいと思いを胸にやっぱり恋もしたいわ、なんていうドギマギした心情を忍ばせながらもその混乱した思考のなかで、苦し紛れにハンバーガーを購入しているに違いない。

アメリカに行く人

火曜日, 8 月 24th, 2010

ようやく2つ目の個展のオープニングを無事に終えて、一段落かと思いきやそうでも無いのだということで四苦八苦しながらいるとまたも友人がひとりアメリカに旅立った。いってらっしゃいと言うつもりで新宿で一緒に飲んだら、逆に不要になった靴とか食材をたくさんもらってしまい申し訳ない気分になるも、がんばろうという気分一新にて新たなる旅立ちを近いつつ、さよならだけが人生だと思いつつもそれは言わずにおこうと思った。と一息つけるかしらと思っていてもすぐに次の行動に移さないと生命の危機にさらされてしまうと思うとうかうかしてもいられない。アーティストは止ってしまうと一気に死んでしまうのかもしれない。

ということで個展があるうちにどんどんアピールをしなくちゃなと思い策を打ちつつ、次はルーマニアかしらと事を進めるのだがまありうまく行かず地団駄を踏みつつ、来年のことを考えるのだ。とにかく早くこの猛暑から逃れらればもう少し楽になるかしらと勝手に楽観視しつつも、もう28歳目の前だわというよくわからない感想を持ちつつ、自分のウェブサイトのサーバーを整理していると「丹羽良徳の奥さん」と検索している人がいたことが分かり、奇妙な感情が沸き上がってきて困るわ。いつもぼくは結婚願望が強いと自分自身で思い込んでいるにも関わらず、いざとなるとアーティストだからと言い訳したがるくせがあって、そんなら言うなよと自分でも思っているのだ。

ヘルシンキのスタジオから見えたフィンランドの暗い夜空がもう一度みたいなと人並みの感想を言ってしまえばそれまでだ。今年はもう一回だけ旅に出られそうだから、まいいか。それまでの辛抱でまた皆さんごきげんよう!個展を見に来てない方是非いらしてくださいね!都内で2カ所で個展が同時にあるなんて滅多に無いんです!

当然のことで白昼夢かしら

月曜日, 8 月 16th, 2010

ある面識の無い方のブログを読むと、工場労働者のことが書いてあった。彼は実際に深夜勤務にて作業員として工場勤務していたのだそうだが、彼の感想によれば工場とは病院と刑務所を足して2で割ったようなところだと言う。ぼくも多少だが経験があるので、その感覚はよくわかると思った。さらに彼はその工場作業にてある種の快感を得ていたのだとも書いてあったことにぼくはちょっと驚いた。もちろん、好きで工場勤務していたわけではなかろうが、何かに失敗した社会不適応者がやってくる工場での純度の高い単純作業の繰り替えしが白昼夢を誘うのだという。いや、理解はできるが納得できないなと思ってしまうのだ。たしかに彼はそのあとすぐに退職したらしいので、厳密に言えば一時的な過酷な作業が寧ろ快楽にも似ていたのだろう。それにそんなことを感じて日々をやり暮らして、仕事が終われば一気にビールでも呑んで呑んだくれて、終わって、そんでまたとりあえず仕事の繰り返しの工場作業員はかなりの数がいるはずだ。資本主義の大多数の労働はそんなものかもしれないが、それは言い過ぎかもしれない。ただし、それに似た感覚で労働する人もかなりいると思う。だからと言って問題解決するのが僕の仕事でもないが、ベーシックインカムくらい導入してもいいかもしれない。それはとにかく早く。とにかくそれ以上ぼくの思索も及ばないが、彼のブログの文章がそんな暗い現状に対してなぜか爽やかで飄々としている文体だということにぼくは一番気を惹かれた。彼はなんだかそんあ薄暗い工場労働の現状をやや俯瞰して見せてくれるようで、悲惨な現状に反して何故か気持ちが良いものだった。

ということで、新しく空いた部屋に作業台を作ってヴィデオの編集室を作った。個展まであと僅かな時間を使って純度の高い作業と思考を実現する為にはどうしても環境を変える必要があったし、この猛暑のなかコンピュータを壊さないで乗り切るための策だったかもしれない。15インチのモニターをヴィデオ編集用に用いてその隣で編集できるようになったので、映像を確認しながら作業ができるのでやや楽なったが、考えてみればぼくの作品は殆ど編集も糞もない映像だったから、こんなの作らなくてもよかったかもなとも思ったけれど、結果的に過ごし易い部屋ができただけだ。ここ数ヶ月やや的を絞ったように動いてはいるが、これがどうなっていくのはまだ未知数であるし、1年後すら何も分からない状況においてぼくができることを日々やり過ごすだけで幸せだなんて、一体どうかしてるわ。と思うのも当然のことで白昼夢かしら。

小説

水曜日, 8 月 11th, 2010

できることなら新しい電話機が欲しい。余裕があればファクシミリも欲しい。いま家にあるのは、北京の雑貨屋で買った完全にバッタものキャラクター電話機なのだけれど、これはこれでちゃんと使えるのだけど、でも電話というものはちゃんとしたのがいいと思う。なんとなくそう思う。電話というのは人が人が繋がる至極簡単なツールとして社会的地位を得ていて、寂しさを紛らわす為に夜な夜な電話を使う人もいたり、ビジネスに使う人もいたりもするという面白い機械だったりするのが好きだ。だからと言ってぼくが新しい電話を買って溺愛しようとするのではなくて、なんとなく新しい電話というものを迎えていれてみたいという心持ちなのだ。これは説明仕切れないなあと思うかもしれないけれど、新しいやつがきて新しい風を吹かしてくれよなんて思ってもいる。電話が鳴るというのも一種のイベントのような出来事であって、電話が鳴るための呼び鈴なんて無いわけで、その呼び出し音が呼び出し音であって、それ以上の予備はないのだから、急に訪れる闖入者に家は瞬く間に忙しくなるというのが、いい。恋人がいるならその電話でまったりと愛のひとつでも囁けばいいのかもしれないけれど、そうは問屋が卸さないので、今のところは諦めて背筋をピンと伸ばしたつもりになってみる。受話器をがちゃりと下ろせば、瞬く間にまた同じ部屋に取り残されたりもして、それはそれは車内から電車の外の友人を見送るような気分のようなよくわからない気持ちになったりして、ああ明日も頑張ろうかしらっていう根拠のない頑張りを見せたりするようになる。そう考えてみれば電話はそれが機能的に持っている以上の働きをしていて、溜まらなく思う。

France Gallと死

日曜日, 8 月 8th, 2010

このFrance Gallの曲をになんだか死を感じてしまうのは何なのだろうか。ぼくの作品の根底には死のイメージがあると言われたことも関係しているのだろうかとも思うが定かではないし、その死のイメージは儚さへの反抗として現れているのかもしれなないが、ぼくは何だか彼女の声を聞いているとすごく人生の末期を浮かべてしまう。それはきっと割り切れない思いと共に吹き出してくる人生の矛盾と現実とのギャップのなかで悶えている人々の姿と重なる。僕たちは何が何でも死ぬんだという結論を背負ったまま楽しそうに生きることを求められているし、そんなこと言われてもできませんと言うのは今の時代は許されないし、ぼくだって、頑張って!と言うのが精一杯である。そんな状況のなかでぼくは何をすべきなのかということを常に考えるべきであるし、実行するべきである。ぼくは共同体という単語も社会という多用してきたのだけど、閉じられた小さな新しい共同体を作り出すことにも興味がないし、実際の社会変革にも興味がない。ただし、そこに生きる人々のなかで絶えず変化していく社会との関わりのなかでの人の生き様に興味があってぼくは作品を作り出しているような気がする。だから主義主張なき作品であって、共同体を形成するわけでもなく、そこから疎外されつつあるある人の抵抗行為である。

はっきり言えばまだ混乱しているのだが、ぼくは感動を求めているわけでも共有を求めているわけでもない。ただ社会との接点における人間の生き様をシリアスに掴み取り出すだけなのだ。それはやはり究極には死へ向かっていくものなのだろか。言われてみれば何となく納得するものである。死んだら終わりだと絶えず言ってきたこともしかりである。そういった大きなタイムライン上での出来事として1日を捉えていくことから始めないと何もできないぞ。と思ってしまう。