Archive for 10 月, 2010

[2010] 美術手帖2010年11月号 - 展覧会レビュー

水曜日, 10 月 27th, 2010

text by 木村絵理子(横浜美術館学芸員)

サンチャゴからはバスで20時間

木曜日, 10 月 14th, 2010

チリの落盤事故のニュースを見ながら、「こんな元気で生還したら、こんなの面白くもなんとも無いわ」と言う人がいたのでぼくはなんだか悲しくなってしまって、ムキになってしまったけれどそこで暴れまくるのだけは止めて黙っていた。当然だけれども、面白くはない。だけれども面白い必要もない。そのことを勘違いしているんじゃないかと思ったし、世界が面白いかと言えば、そんなこともなくて、単なる現象や争いや事故や戦争があるだけだ。それをどう考えて行動するかだけで、それは何も面白いことでもドラマでもない。たんなる出来事に過ぎないのだと思う。ぼくらはきっと用意された根拠とか面白いであろうドラマやお話なんかに惑わされて生きているのかもしれないし、それをこれを勘違いしているに違いない。何もこの社会は用意されていたのでも何でもなくて、僕たちが作り上げたし、僕たちはそれを乗り越えようともしているわけだ。ぼくらは用意された根拠のある面白いお話というものは聞きたく見たくて知りたくて、しかもそれをだいたいは想定内で考えていて、それでさあ面白いねえと言って死にたいのか。そうに決まっている。そんなのだったら、ぼくは面白くないことをしたい。きっと地上待っていた家族も恋人も兄弟も大統領も「面白い」とは関係のないとろの動機によって待ち続けていたはずだし、それでしか待つ事はできなかったと思う。だから泣くんだ。ぼくらは何も言えないから泣くしか術を知らないのかもしれないと思うとそれはきっととても面白いことだと思った。そんなこんなをチリの友人に伝えてみると、案外あっさりサンチャゴからはバスで20時間もかかる遠い場所なのよ、だなんて。

飛行機に乗ろうというのは「帰ってきます」というのを遠回しに宣言しているのだ

火曜日, 10 月 12th, 2010

待ってるぜ、なんて格好付けた言葉が本当にかっこ良くなるんであれば何度でも言ってやるんだれど、たぶんそれだけじゃかっこ良くもならないと信じているからぼくらは行動するのみであって、本当に残された道はきっと、とんでもなく変態で格好悪い行動でしかないということは良く分かっているから生きていけるのだ。フィンランドで会ったあの子は今度はイスタンブールへ行くそうだ、彼女を見ていると人類の歴史を精一杯背負っているのかしらという根拠のない想像をしたりする。そして彼女の眼差しは孤独でどこか誰かを探しているような気がしてならない、きっと会えばとんでもなく元気でそんなこと無いと言うに違いないけれど、きっとそうなのだ。ピアノの音がなんとなく寂しい感じに聞こえてしまうのは、きっとその音が消える瞬間というのが妙に強調されてしまうのかもしれないし、加えてそれを知っているのだから僕らはピアノのコンサートなどをやったりする。消えてしまいそうで、苦しいのだからぼくらはここではないどこかへ逃げ出そうと試みる、それを旅と呼んで喜んだり、喜び組になったりする。それもぼくらは承知のことだから、旅に出たりしてもどこに、そこにも目的地なんて無いのだから、きっと家に帰ってきたりする。ぼくらはそうやって生きてきたし、これからもそうやって生きていくんだと思うと勇気が沸いてくるような気がする。そうだ、飛行機に乗ろうというのは「帰ってきます」というのを遠回しに宣言しているのであって、寂しがりやのやるこである。つまりぼくだ。

[2010] コンビニエンスストアの蛍光灯をイラクの商店の電球と交換して、お店を異常に明るくする

火曜日, 10 月 12th, 2010

[Word file] コンビニエンスストアの蛍光灯をイラクの商店の電球と交換して、お店を異常に明るくする

時速の話

日曜日, 10 月 3rd, 2010

どれだけ社会的なシステムが高度に発達しようとも文明が進もうとも、ぼくらは明らかに丸裸で生きているし、知らない間に知らない人のお世話になっているという事実だけは外せないような気がする。考えてみれば簡単なことで割り箸ひとつを折るだけでどれだけの労働を消費するだろう。コンビニを24時間営業する為にぼくたちは過酷な労働を強いられているのかもしれないと思うと当然気分が澱むし、先が無いような気分にもなる。資本主義の中では当たり前の様に思われるかもしれないが、より便利で豊かな暮らしで経済的に成長をしないといけないという要求は確実にぼくらを苦しめている。裏を返せば必要のない大量の労働を生み出してそれを消費しないといけないのだから。テロが起きて当たり前だと思う。ぼくらはきっと時速500キロで走る新幹線も必要ないし、深夜2時にコンビニが開いていなくても困らない。きっとそれらはぼくらの生の必要性から生まれているものではなくて、社会存続そのものに必要な条件を満たしているからであって、そのものの実用性から存在してはいないような気がする。だってぼくらは夜になれば眠くなるし、遠いところに移動するには時間がかかることくらい知っているし、またはそれはとても自然なことであるし、その法則に越えたところで、きっと自分たちが余計に眠くなって、余計に移動しなくてはいけなくなることくらいは分かってるはずだ。なんて思うとぼくらは眠いところを余計に眠くさせて、余計に早く遠くへ移動しながら生きているのかもしれない。ただし、その結末はくだらない疲労と時間の浪費なのかもしれない。でもそのおかげで人生が早く終わった気分になればそれが一番幸せなのかもしれないという錯覚させることが目的なのかもしれない。苦し紛れに何かわかったつもりになるなよと聞こえてくるような気もする。