Archive for 1 月, 2011

満月

月曜日, 1 月 24th, 2011

今夜は徹夜なり。いつのまにか徹夜なり。そうだ徹也くんにも連絡しなくちゃなあと思っていると朝になる。そうだフィンランドのあの子にもしなくちゃなと思うと朝になる。そんな人生ならきっと面白いはずだから、煙草も旨いし、珈琲だって煎れる時間にイライラしないし、毎日寒くてもなんとかなるんじゃないかと勝手に妄想しているんだから、明日になってもたいていは平気だけれども、明日は明日で満月かしらとか別の問題のことで頭がいっぱいになっていって日が暮れてまた別のことで頭が悩ましいのだけど、たぶんそんなことをしてる間にぼくは死ぬんじゃないかと思うと、なんだか愛おしい時間だなあなんてまた勝手な妄想も始まってしまって、眠れない。フィンランドで会ったあの子からメールが来たわなんて一気一優している内に多分2012年になると思うけれど、それもまた一興。

しずかちゃんとタコ

水曜日, 1 月 19th, 2011

いま、ドラえもんに登場するしずかちゃんみたいな髪型にしている。前髪はパッツンで、両脇に二つ結びをしている。長いことで3年くらいは床屋にいかず、自分で切っていたらこうなった。というか前髪ばっかり切っていたらこうなったというべきか。そんなことはどうでもいいんだタコと言う人もいるかもしれないけれど、案外こういうことが大切だったりするんだよタコとも言う。つまり人はファッションを気にする。自分が誰であって、どんな格好をしていて、どんな属性に所属していて(と思い込む為に)どんなことを考えておりまずぞと言わんばかりにそうする。だからそれらからはみ出た人は迫害されて居場所が無くなる。当たり前だ。所属を示しているんだから仕方がない。だから制服とかいうのがあって、あら、わたしもこれからなんて思って着るのである。時々、そういう制服とかに反抗するひともいるのだけど、それもひとつ威嚇行為であって、ぼくは私はそこに所属しておりませんという意思表示であって、個性とかそういうのではない。ぼくは個性なんてどこにも誰にも無いと思っているし、そんなのあまり必要でもないと思うし、そんなことは考えないでもいいというか、考えると余計に泥沼にはまってしまうとうか、まやかしというか、幻影というかそんな感じだと思っている。時々、ぼくにそういう個性の話をしてくる輩が登場するのだけど、ぼくはそれにあまり興味がなくてそんなことを言って間にも人生は終わってしまうのよ、なんて言ってやりたい気分ではいるけれど、それではあまりロマンチック過ぎて頬が紅く染まってしまいそうで困るので適当に相槌を打ちながら、いやあそんなのどうでもいいよと最終的に言ってやる。たいていそういう人は何も考えてない。革命は冷静に情熱を注げ。タコ。

意味

水曜日, 1 月 12th, 2011

ガラスを割りたい

モスクワ

土曜日, 1 月 8th, 2011

電車のなかで、あの子可愛いじゃないのなんて思うのは当然のことでそこで何が起こっているのか、もしくは何も起こっていないのかもしれないのだけど、その感情というのは一体どこに消えてなくなってしまうかしら。なんて考えて無駄なのかもしれないけれど、ぼくらは知っているにも関わらずに、知らないフリをしているんじゃないかと思うようなことが、時々ある。逆に知らない事も、知っているフリをすることも時々ある。もし、隣に座った可愛い女の子がいたら、聞いてみるといいと思う。合言葉の無い出会いは厳しいものだが、そんなのは当たり前だと思う。きっとぼくらは、自分と他人のどこが違うか毎日話し合ってるだけだ。

今年のまとめ

日曜日, 1 月 2nd, 2011

今年のまとめ。つまりまだ始まったばかりのことをまとめるのだ。当たり前だけど無理だ。そうに決まっているのだから、この先になにが起こるのかしらなんて、ドキドキしてときめいたり、フラフラになって卒倒したり、恍惚になったり、悶え死んだりする。その間にあっけなく死ぬのかもしれないし、真冬の凍え死にそうな真夜中の闇に紛れ込んで自殺するかもしれないが、そんなことはまだ考えてもいないので、大丈夫だと思う。なんだか特に理由はないのだけど、最近の問題は記憶と感情じゃないかと思っている。ルーマニアのプロジェクトでも同じような単語を使って説明したのだけど、それはちょっと違うことを今は言おうとしている。記憶がなくなってしまうことをぼくは恐れているし、それが結構重要な要素だったりもする。現代においてはあまりにも記憶が蔑ろにされていて、つまり過去なんだけど、それも何もなかったことに等しいような感じに扱われていて、じゃあ何のことなんだい。と言うようなことばかりのことをやっているようにも思える。意味がぼくにも掴めないけれど、論理の飛躍をすれば、記憶よりも情報の時代なのかもしれない。属性の時代と言うのかもしれない。上手に言えない。それに感情と僕が言うのは、もっと意味レベルのことではなくて感情的物事を動かしていければ、きっともっと死の問題が見えてくるんじゃないかなあと漠然と思っているからであって、死の問題というのは誰しも割けれない道であって、そこに辿り着けない人もいない。そうなってくるとやっぱり感情というレベルというものは必須の要素と浮かんでくるのも間違いがないし、最近特に思っているのは、意思と思考との違いについてだけれども、どうも可笑しいなあと思ったら、よくよく考えてみれば、僕つまり丹羽良徳と指し示した時に、一体何を指しているんだろうと思ったのがきっかけなのだが、例えば「丹羽良徳が怪我をしました」と言う場合、例えば手を怪我したとすると、手は丹羽良徳なのか、という問題になる。夢を見ているという事実がある限りでは、思考は恐らく寝ている間にもしている。だけれど、意識はないはずで、「私は今寝ています」と意識がある人はたぶん少ないだろう。だから、意識と思考とは別にある。でも、きっとそこで問題になるのは、感情で、夢の中でもきっと感情があったりするのだから、意識とは別回路を通じてそれは生まれる。何が言いたいのかというと、意識は思考をコントロールすることなんだということで、それができるかどうかが今年の課題かもしれない。はじまり。