Archive for 3 月, 2011

[2010] メトロミニッツ

金曜日, 3 月 25th, 2011

きっと偶然なんて起こらない

火曜日, 3 月 22nd, 2011

正確に言うと、すべて必然の出来事でしかなくて、ぼくらは「きっとこれは、世界がなんだか意味のわからない支離滅裂な仕組みで動いているんだから、たぶん何だかよくわからない出来事が急に起こったんだ、これは偶然に決まっている」と思っていることにしているのだけれども、そんなことはなくて、そんなの言い訳だ。ぼくらは死ぬし、死ぬのが怖いし、泣きたい。それのどこに偶然というものの入り込む余地があろうか。きっとぼくは、自分より崇高で高度な存在にあやかりたいと思っているだけで、理解できない出来事が目の前に迫り来るのが怖くて、科学とかなんとかという形式言語を組み立てることで回避しようとするが、それが無理で、どうしようもなくて、起こってしまったことの後から、あれはあれなんですよ、なんて言うしかない。それはとても惨めで、情けないし、救いようがない惨敗である。泣きそうだ。泣きたければ泣けばいいし、死ぬのが怖いのなら、恋人に甘えるのもいいと思う。きっとそのどうしもない越えることが到底不可能そうな、事実と向き合うのがとても怖くて、恋人に甘えても結論は貰えないので、ひとりになってどうにかしようとするけれど、どうにもならなくて自爆しようかと考えて酒に溺れるのも惨めだ。どこかなにかのきっかけを掴んでぼくらは、そのどうしようもないことだらけの支離滅裂の人生を甘んじて受け入れるしかない。腐った階段から転げ落ちそうになって、人生の最後を感じとったら、しめたものだ、ぼくらは間違いがないように受け止めないといけない。

[2011] Metropolis

火曜日, 3 月 22nd, 2011

[2010] 泥棒と文通する

月曜日, 3 月 21st, 2011

Communicating with thieves, 2010 from yoshinoriniwa on Vimeo.

[2010] 熊が熊に会いに動物園に行く

月曜日, 3 月 21st, 2011

A bear goes to the zoo to see bears, 2010 from yoshinoriniwa on Vimeo.

今日は

水曜日, 3 月 16th, 2011

男が欲しければ奪のもいい、女が欲しければ奪うのもいいということが書いてある詩を読んだ。

恥ずかしながら

金曜日, 3 月 11th, 2011

最近は、ずっと展覧会のために作業しているので、珈琲の煎れ方なんかもその時々に変えたりしている。なんだこいつ格好付けやがってと思われても、仕方がないけれど、最近は単純な煮沸法を良くやる。つまり、鍋に水を煎れて沸騰させたところへ、豆をぶち込むだけで、あとはその上澄みだけを飲む。なんとも原始的で好きだし、何と言っても早いし、簡単だ。何も考えないでいいし、ぼくは計量もしないから、適当な水をと好きなだけ豆を入れる。昔は、フレンチプレスなんかも好きだったけど、何回もガラスを割ってしまうから止めてしまった。時には、ペーパードリップをしたりして、こっちもいいなあとなんて思ったりもするけど、せっかちで蒸らすのが面倒くさいので、いつも蒸らしている時にトイレに行く。だから、煮沸するのが一番いい、荒々しいし、当然豆の残りカスが混じっていてる。それくらいで丁度いい。鼻水が止らない。

こうなったらやけくそだ

火曜日, 3 月 8th, 2011

というフレーズが好きで、何度も頭の中でこだましている。実際に何度か言ってやったこともあるのだけど、その心意気というか、そんな気分だということがとんでもなく好きだ。頼もしいとか勝手に思っている。なんだか昨日展覧会のカタログの校正でこっそり読んだ他人の文章で、理解できない、わからなさというものに向かおうと書いている人がいて、いいなこりゃいいなあなんて、思ったりしたもんだ。だからぼくは、こうなったらやけくそだとか言ってやるし、だんだか言語に到達する以前の動物の慟哭にしか聞こえないかもれないけれど、それでいいのなら、それでいいし、それじゃ駄目なら考える。こうなったらに対してのヤケクソが何の意味も成していないところが粋であるんだなとか考えている(思っているだけ)で、それ以上ではないので、あしからず。つまり記号的な犯罪者なのである。よし、決めた次のアーティストブックのタイトルは「記号的犯罪者」だ。

ひたすらに果敢に向き合える人生はとっても愛おしい時間だ

水曜日, 3 月 2nd, 2011

こんな面白いことは他にないなあと思うことが良くあるのだけど、芸術家で良かったと思う。昔、ある居酒屋で隣に座っているおじちゃんと話をしていた時に、ぼくのやっている芸術活動をなんとか説明しようと頑張っていたんだけど、どうにも細かい内容を理解はしてもらえなかったのだけど、すごく君が興奮していることだけは良く分かる、それが一番良いことだと言っていてちょっと複雑な気分になった。今思えば、それはそれで良かったのかもしれない。どんなに素晴らしいことでも、偉大なことでも、熱狂していないことはないのだと名言ぽいことを聞いたような気もする。その時、なぜかそのおじさんが全部僕のビールを奢ってくれた。出来上がる作品が面白いことよりも、自分にとって大事なことをきちんと整理を付けるようにその点では、正確に的確に丁寧にごく自然に取り扱えることが出来るのなら、芸術家になったほうがいい。問題をきちんと設定できて、解決できないとしても、その事が明白だとしても、その問題に体当たりできる人の方が向いていると思う。よくわからないけれど、ぼくらの抱える歴史とか社会とか人類などの問題をひとつづつ死ぬまで、ひたすらに果敢に向き合える人生はとっても愛おしい時間だ。愛してる。虚しくも、寂しくも、孤独で、本来何の保証もない、ただ剥き出しの人類の生の行動だけがこれからを作るんだと思えれば、きっと明日も晴れるし、雨が降ったとしても、傘なんていらない。なんて考える夜は、またラブレターでも書きたいなあなんちゃってね。当たって砕けろという点では、芸術活動も好きな女の子に告白しているようなものだ。走れ。

100の魔術

火曜日, 3 月 1st, 2011

今日から実質的に3週間のお休みをするのと同時に展覧会の準備をするということで、ややこれからの予定を書き込むんだと思って、手帖とかカレンダーとかその辺に置いてある紙切れとかに予定を何回も書いたりしている。手帳は高橋の広告で「いい予定を書こう」なんていうのを見るたびに買おうかしらと思っても、一度も買ったことがないけれど、このまえどこかで見た100年カレンダーならちょっと欲しいかもと思ったけれど、ちょっと考えてみれば、これは確かにぼくはこの最後の日までには確実に死んでいるわけで、どこかの記事見たけれど、この100年カレンダーを見て自殺した人が増えたと騒ぎにもなったけれど、予定はそんなに先まで見えない方がいいのかしら、なんて思うかもしれない。これから先はどうなるか分からないわ。なんて言う位の方がどきどきして、若く生きられるのかもしれない。終わりが見えている映画なんて誰も見たく無いし、自分が死ぬ日が見えている人生なんて誰も生きている心地がしないのかもしれない。だったら予定を立てるというのもちょっと考えものだなあとも思うけれど、勇気を出して家に100年カレンダーを貼付けてやって、出来るだけ先の先まで予定を立て込んでしまうのもどうだろうか。自分の死ぬのは100年以上先だと言う事にしておく事も予定ならできるはずだ。そんな限界くらい予定という理想郷の中で容易なことだし、結婚だって、出世だってできる。予定なら。その自分の理想に置いてかれないように努力を怠らなようにする為の尻たたきとして機能するならば、きっと役立つことだろうが、その現実と理想の狭間で殺されるのならば、ごめんくださいだ。何でもかんでも手に入って、情報もおおぴらげの世界の中で全く予想も付かない事を探すことのほが大変かもしれないなあと思うこともあるけれど、そんなこともないな。きっとぼくの死ぬ日だって、書き込んだって自殺する以外にはその通りにはなるまい。だからやっぱり予定は長くて1年先くらいが丁度よくて、その先はよくわかんなーいって言うくらいのほうが、可愛いのかもしれないし。そのくらい女の子のほうが好きだ。