Archive for 4 月, 2011

牢屋

水曜日, 4 月 27th, 2011

新宿で珈琲フロート。ある一瞬の休息が幸せなのか何なのかは後になって考えたとしても、何の意味もない感傷でしかなくて、一体何であったのかと問うよりも、だったら何なのよと言って走り去ってしまうような、取り留めないの無い人が好きで、多くを語らない人が好きだ。僕らには記憶とか過去とかというものがどうしても気になってしまうことが多いのだから、こんな忙しない人生を送る羽目になっているのだけど、考えてみれば(考えなければ)ぼくらはきっともっと純粋無垢に生きることが可能な筈なんだけど、それはきっと無理だという半ば諦めのような希望にも近い可能性をぼくは感じている。何事もそうなのだけど、度合いが過ぎると一回転して、薬も毒になるし、毒も薬になる。

時には無力な姿というものも必要なのだ

木曜日, 4 月 21st, 2011

良く言ったものだけど、人は良く「心だ」とか言うけれど、心で家賃を払っている訳でもないし、心で電車に乗っている訳でもなくて、心でドアを開けるのでもなく、心で歩いている訳でもないのに、良く言うものだなあと思うのだけど、さてはて心だなんて都合のいい言葉を作ったものだと思う。そんな代名詞的なまやかしに騙されれてたまるものかと思う節と、いや我々は精神無くしてもはや人間ではないというのも理解できるけれど、そのあやふやな非常に非情な発展途上の泥沼に生きているに違いないと思った。テレビで元ボクサーの竹原さんが韓国でキムチを買おうとしていたのだけど、彼は韓国でも「心だよ、心!」と言っていたのに、英語も韓国語もできない彼はすぐに挫折してしまって「言葉の壁」を感じるとしょんぼり言っていたのを見てぼくはなんだか心が温まったのだった、彼はキムチひとつ買えなくて路頭に迷てしまうのだけど、そこに心はあるんだろうか。いや心が何でも解決できると勘違いしてはいけない、解決できないという無力で虚無で無責任で無能な我々が言ってみれば心なんじゃないかと思う。それはぼくらが必要なものは、すべて万能な武器だと勘違いしてしまいそうな奈落の底に落ちそうになって躓いてから気付くような単純な灯台下暗し的な質問だったのかもしれない。時には無力な姿というものも必要なのだ。

モスクワの魔法使い

火曜日, 4 月 19th, 2011

生き甲斐無しに死ぬ事はできないし、死ぬ瞬間に恥は必要ないかと思うことが本当にできるのならばきっとこの人生は良くなるはずで、ぼくらは真っ暗闇を進んで行こうとも明るい未来があるはずで、ろくでもない毎日を楽しいと言えるかもしれないし、見知らぬ他人に優しくできるのかもしれない。電車の中で出会った女の子が可愛いと思えるのならば、出会い頭に「可愛いねえ」なんて言ってみるのもいいのかもしれないけれど、変態の域を出られないのならばそんなこんなで言わないで置こうと思う人が多いのかもしれない。ぼくたちはそんな葛藤を日々繰り返しているし、そういうことのすれすれの選択の中で人生が決まってくるのは間違いがない、ただ間違えていけないのは、決定的な瞬間がどこにあるのかという見極めであって、それはぼくにも分からないのだけど、今この瞬間かもしれないし、5分後のことかもしれないが、今だ!という強靭な決意のもとに行動に移すことのできる根拠というものは、どうやって作り出せるかそれが問題なのだ、震災が起ころうとも東京の知事は分からなかったし、どうやら革命が起こることは無いのだとうと思う人も多いのかもしれない、ぼくも大差ないのかもしれない。その中でいやこれはこうなのだという結論を引き受けるあらゆる二次的な見えない行き先までも任せておきなさいと言えるのが、いいのかもしれない。そうでなければ、妊娠はできない。そう考えるとぼくはとっても寂しいひとなのかもしれない。なんてね。そう思うとぼくは何だか悲しい人かもしれないなあなんて夜道を歩きながら思うこともあるのけれど、明日もきっとそんなことを考えるかしらと思うと、いや違うんだと躍起になって珈琲を煎れまくるのだから、まだ大丈夫かもしれない。まだ20代の人生が終わってもいないし、始まってもいないような気がするし、結婚もしていない。喜んでいる場合じゃない。クタバレノストラダムス。

雲脂がたくさんでる

火曜日, 4 月 5th, 2011

そういうことだ

[2010] The Diplomat, Bucharest (Romania)

日曜日, 4 月 3rd, 2011