Archive for 12 月, 2011

お葬式と誕生日

水曜日, 12 月 28th, 2011

来年はどうなるのかしらって、当然だけど思う。2012年じゃなくても当然思っているはずで、でも来年は2012年だから、あれがこうなって、ああなるのかなんて計算できたりもするけれど、そうなるのかどうかは分からないから、きっとそんなことを考えているうちに、現実が想像を追い越してしまうのだ。そうに違いない。最近、空虚な思いばかりを溜め込んでしまっているのは、きっとTwitterとかfacebookとかに無関係なことではなくて、ぼくらが潜在的(洗剤的)に抱え込んでしまっているであろう、あれなんだということで片付けておくしか、なかろう。そうでなければ、明日のことに怯えて自殺してしまっても、彼を責められない。ぼくはきっと、一度しかみたことのない、それも二次的三次的(惨事的)な記憶だけを美化してしまって、それと結婚しようとしているのかもしれない。だから、いつまでたっても結婚ができない。自分から遠ければ、遠いほぼ、それは神秘的で美しいし、希望があって、可能性となる。だからといって、身近な生活をないがしろにした、自分を責めるわけにもいかない。それを引き受けて生きるしかないし、時間がなければ、灰皿にご飯を盛ってもいいだろうし。それにはメゲナイ。という意味で、未だに衣食住にはほぼ興味がない。

森の中で街の中が見える

火曜日, 12 月 20th, 2011

予定表はカレンダーをずっと見つめて頭の中でjpeg保存している。というのは複雑な言い方なのだけど、そいうことになっていて、ずっと使っているカレンダーがないだけでどうにもこうにも予定が頭に入ってこないということは、そういうことなんだ理解した。とんでもない非合理的なやり方なのだけど、日々の慣れてしみ込んでしまった些細な作法というものがあるが、それは破壊された。もしそうならば、これからどうやって生きていけば良いのか、それが問題であって、当然生きるとか死ぬということは、その未知の領域に向かっていく不安のなかで、開発と挫折を繰り返し行うしかあり得ない。当然ながら多くの人が思うように、今日よりも明日のほうがずっと素晴らしい日々が待っているだろうなんて、多いなる勘違いであって、今日も明日も明後日も良くわからないし、どうなっているのかも不明であるし、きっといつか死ぬだろうという未確定だらけの日々を送るしかない。だからと言って自殺してやろうかともそれは、歓迎されるべきことではないので、大いなる不安があったとしても何とか生き抜かなければいけない、英語で言うとサバイバルなのだ。どこか全く知らない街で知らないおじいいさんに出会っても同じことを話せたらいいと思って、その訓練をしているのである。

トルコリラの幻影

月曜日, 12 月 19th, 2011

飛行機の中で死んでやろうかなんてロマンチックなことを考えてしまったのだけど、そんなどうでもいい葛藤を抱えつつも、トルコで撮影した(しかも偶然、イスタンブールで知り合った日本人に撮影をお願いした)ヴィデオをみながら、あーでもない、こーでもないと、フラフラしている。とんでもない。本当だったらならば、今現在どうであるべきなのか10歳の自分に聞いてみたいところだ。思い返してみれば、トルコはここ数年で珍しい観光だったのかもしれないと思うと、ぼくの人生ももっと面白くなるかもしれないとか勝手なことを支離滅裂に考えている。マイクロウェーブ。