Archive for 6 月, 2012

酩酊プロ

水曜日, 6 月 27th, 2012

否、やっぱり辞めてしまおうか、という何の根拠もないような感じを勝手に受け取っていても、結局はどうにか進まないといけないのというのが人生の掟なので、それに抗うことは自殺しかない。そういうことはきっとまだ僕にはできないし、そうするつもりは全くこれっぽっちもないけれど、あまりにも残酷な世界の中でどうにか楽し(そうな)い生活を自分自身で演出するためには、否、構築するといったほうがいい、辞めてはいけない。そんなことは20年以上前から知っているし、小学校に入った時点でもう全然知っていたはずだ。それなのに、何故いまさらそんなことで考え直すことがあろうことか、なんて言うのは幼稚なのではなくて、大人なのだ。プロフェッショナルという言葉をぼくは究極には信じていない、寧ろその感覚を否定しうるのが本来のプロであるかもしれない。プロはいつ迄たっても根源的には、赤子のままでいるということだ。そして、それを肯定するということだ。まことに、ぼくの考えていることは世間のプロフェッショナリズムとは全く逆方向の可能性を謳っていると思われるだろうが、そうだよ。

神様の結婚

水曜日, 6 月 27th, 2012

いま、何を言っていいのか分からない。何を言うべきか、それが何も分からない。やることはいくらでもでもある。締切もある。いや、山程あるのかもしれない、そう思い込んでいたほうがいい。いや、未来は何もかもある決断に委ねられているに違いない、そうだ、何もかも未来は小さな決断に運命づけられている。反原発抗議も佳境を迎えるかもしれない今、その後のことを考えていてどうしようもない。ただただ何らかの予感だけを夢見ながら、あせくさしているのだ。君の未来はどこで何をしている誰かさんなのだ。youtubeで流れてくる余りにも洗礼された音楽がどうしようもなく醜く見える。30歳になってようやく小汚いシャツで街を歩いていてもいいじゃないかと正直に思えるようになったら、なんといいのだろうと思うけれど、ぼくも心のどこかでいやズボンのチャックを開けたままで歩くのはどうなんだろうかと思う微妙な感覚を持ち合わせているから、どうしようもない。革命家じゃない。最後まで小市民なのだ、そういうことは本当はどうでもいい、最後の結論は死んでも分からないかもしれないけれど、29歳の最後の夏というのは、そんな小さな問題をくよくよ考える為に用意されていたのではない、きっとぼくらが生まれる前からぼくがこんな事で悩み苦しむことは簡単に想定できたに違いない。違う。そういうことじゃない、もっと残酷な恋愛だとか結婚だとか至極当たり前のことでもっと悩むべきなのかもしれない。30歳を目の前にして、ときどきやっぱりもしかするとぼくは一生独身かもしれないなという、どうでもいい悲しみを思い浮かべることがあるくせに、友人と話していて同じようなことを友人が言うと「そんなことはない、大丈夫だよ」なんていう身勝手な助言なんかをしたりする、そういう自分が酷くゴミみたいだ。いや、そういうことはある程度片付いているはずだ、大丈夫。そう思い聞かせてきたはずだ、今現在でも大丈夫だ、きっと大丈夫だというある種の神話を自分で形成してきた。ただ、そのタカをくくった思い込みがどれだけ強靭なモノだろうとも、ある瞬間に脆くも崩れ去る時がある。他人というのは、神様だ。自分以外の人はみんな神様なんだ。そいうことを結論にはしたくないと思い込む人格を自分のなかに隠しもっているかもしれないが、まだまだぼくも29歳。言葉の槍が飛んできた時に、どうしても返せない時に、そう思ってしまうことがあるし、他人が何を思うか、何と言われるか、何と思われるか、何と受け止められるのか、そんなことが人生に軸になっているようにも思えてならない。きっとそれが本当に分かるまでは、結婚なんてしてはいけないのかもしれない。否、そうでもなくては、結婚しても失敗してしまう。否、結婚しているひとを馬鹿にしているんじゃない。結婚というものが、どこか厳かに決定されるものだとどうにか信じ込みたいだけなのかもしれないけれど、そうでもしなくじゃ精神をどうやって正常に保っていられようか。

ベトナム

木曜日, 6 月 7th, 2012

でタクシードライバーとのコラボレーションを計画しているが、なかなか良案が出ない。

♥自己破壊♥

水曜日, 6 月 6th, 2012

結論ではないが、ほとんどの思考というのは言語で行うのではないかと考えれば、思考を変えたければ言語の使い方を意図的に変えてしまえばいいのではないかと思った。たとえば、すべての文末に♥マークを付けることにしようとすれば、すべてが一気に軽く見えてしまうのではないかと、ということはその言語の使い方に自分の思考が引き摺られているのではないかと。間違いはなく、きっとその小さなアクセントによっても文章の雰囲気が変わってくるので、雰囲気が思考に与える影響もあるのではないかと思うのだ。自己破壊を導き出せるのではないかと思った。ただここで問題になるのは、人生で本当に♥マークを使わないといけない場面でその威力を発揮できなくなってしまうのは、非常に惜しいことであるので、ぼくはもうこれは辞めることにしたい。

私的講義

金曜日, 6 月 1st, 2012

いま、書籍出版のために文章を書いている、これがいつ書店にならぶのかは全く不明であるというかぼくの頑張り次第なのであろう。とても慣れない作業の連続で参ってしまったというか、これは筋トレが必要なのではないかと思うことが多い。ただし、気をつけないといけないのは、筋トレすれば結果が出るというわけでもないということだ。インタビューを重ねれば重要な事実を突き止められるとか、議論を重ねればいいアイデアが出るなんていうのは、真っ赤な嘘だ。それは思い上がりと言っていい、そういった努力の積み重ねで進む方程式というは、表向きは賛同を得られるだろうけれど、きっとそんなことはない。ひとは生まれながらに不平等に生まれてきて、不平等な運命を背負って、不平等な社会の中で選択を強いられる、それはもう分かり切ったことだ。そんなことで驚く人はいないだろう。ひとだって、それぞれなんとかしようとするんだ、ただ同じ努力や同じトレーニングで、同じように結果を出せるとも限らない。努力しないでも結果だけだす事だって現実的にはあり得る。いや、ぼくが努力を惜しんだり、否定しているわけじゃない、そういったことですべてが決まってくるわけではない、というポイントを確認しようとするだけだ、その宿命的な中で努力の価値もいかようにも変化してくるだろう。ここで、自分以外の他人と触れる時の問題にぶちあたる。いかに、自分とは全くフィールドの違った領域にいる、その人とどうのように何を共有したら良いのか、いや最終的にはできないのかもしれないが、そのできないと分かり切ったところから、いやもしかすると出来るかもしれないという神話的な未知なる想像を重ねることが愛なのかもしれない。いや、どうだろうか、勝手なことを言うとまた可笑しくなりそりそうなので、結論は出さないでおこう。きっと、死ぬまでは悟ったふりをしても無駄だ。きっと現実は非常に、残酷で虚しいと言ったほうが分析的かもしれない、でも四六時中分析をやっていればいいかと言うとそうじゃない。残酷で虚しいからどうするんだと考えることだ。今日、読んでいた本のなかで、人間の生存権と動物の生存権の話を読んだ。それによれば、人間はすべての個体の生存権を認めないといけないが、動物にそれを適用すれば大変なことになる、全員ベジタリアンになって、捕鯨禁止を叫んで、動物実験反対を叫んで、害虫駆除反対を叫ばなければいけない。しかも、それが過剰に進めば高等生物と下等生物へ選別されていく、いわば人間様が活かしておく動物を選ぶようになる。という。ということは、現状われわれ人類は、動物を殺生し喰うことを認めるが、種としての動物や自然の保存を求めないといけないとある。つまり、われわれは動物を殺すのだ、見ようによれば虚しいかもしれないが、それが人間のやることだ、という二重のレイヤーがほとんど重なることなく並行してしまう。そこにいくらかの指針を与えることが倫理学であるかもしれない、結論なき現実に決断をするのが愛なのかもしれない。なんてね。