エッセイ|終焉のこと

7 月 26th, 2012

すでに思考も論理もあったものか、てにをはも何もない。残されたは、非常に虚ろな感情だけだったし、それがどうしたこうしたも何もない。クドクドしいが何もない、ただそんな状態で虚無感を漂わせているのは、根拠がないわけではないがここには書かない。

ということで少し別のことを書く。しつこくも何度も死があーだこーだ書いていたように思うけれど、それが一体どういうことなのか、まだ射止めれずいる。当然ながら自分の死を目前に捉えているわけではないので、そういった雲を掴むような話をずっとしているのかもしれない。ただ予感として、直感として、すべての人類が例外なしに個人史の上では、死に向かっていきていかなければ、いけないというその事実だけで、ぼくは身震いような感動を覚える。それは、いかに生きるのかという問いに等しい。あらゆる問題の根源と言っても、そう間違ってもいないように思う。ここでは論理的展開はさておいて、どうしてそのような考えに至っているのか、どうして死を目前に控えているわけでもない人がそんなことを言えるのか。

間違いなく死は個人における終焉だ。人生の終わりだ。死ねば何もかもが無くなり、無効になる。ぼくは無神論者であるし、輪廻転生も信じていない。もっとも、もし輪廻転生があったとしてもぼくの考えには何も影響はない。いつか終わることが定めらているにも関わらず生きることは、宿命である。そこには理論や説明はない。もし回答を用意しなければいけないのならば、すぐに自己矛盾する。当たり前だ、生まれたい!という意志で生まれてきたのではなかった。これは消極的な考えでない、人は積極的に生きるためには、この事実をまず受け入れるべきであろうし、すべての価値はそこから何もかもが後天的に、後追い的にやってくる。ということだ。

ということはどういうとか。ぼくが先にこの世界にいたのだ。すべての価値以前にぼくがはじめに存在した、すべての価値から人の存在は優先されている。もちろん、時間軸で語るのならば、ぼくの生まれる以前から存在した価値はあるが、その価値はすべての人間に先行したわけではない、誰かの後を追っているのだ。ここでひとつ重要なのは、ぼくよりもこの世界に存在した人々だ。ぼくらは、江戸時代の女性と恋に落ちることは不可能であるし、西暦2800年に生まれてくる人とご飯を食べにいくことは、現状不可能だ。つまり、ぼくらは存在的にはあらゆる価値から先行して存在しているにも関わらず、存在はある100年足らずの時空に閉じ込められている。

後世に何か残そうとする人々がいる。子供の世界に何か残そうではないかとか、タイムカプセルを埋めようとか、そんな些細な出来心で人々は時空を越えてコンタクトを取ろうとすることがある。このような話を聞くたびにぼくは、なんとなく人類の儚さと無謀さを感じ取らずにはいられないし、定められた人類ひとりひとりの孤独感を歌いたくもなる。もっとも、誰もが平等に死ぬから良いのであって、もし仮にも人類の50%だけが死ぬ運命で、残りの50%が永久に生き残る運命に生まれていたら、事情は全く違うであろう。いっきにアウシュビッツばりの悪夢になりかねない。しかし、事実上平等に死ぬ。そこがいいのだと思う。平等に終焉が定められているというのは、唯一人間同士が尊厳を保つための砦として、どこか優しさを感じてしまう。

終焉とは何か。そんな問題にそう簡単に答えることはできないし、名言っぽいことを吐き出したところで何にもならない。しかし、終焉というイベントは人間にどうしても、必要なことだとしか思えない。しかし、終焉は悲しくも寂しいものである。それがぼくが生きようとする動機だ。

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