リン・ラムジーの映画によせて

7 月 28th, 2012

リン・ラムジーの映画を2本観た。どちらの映画も孤独と闘う人の映画だったと言えよう。片方の映画は、クリスマスに彼氏が自殺したシーンから始まった。最愛の恋人が急逝し、残したのは書き終えた小説原稿とカセットテープ。出版社へ持っていくようにとの指示だったのだけど、その前に彼女は著者名を自分の名前に書き換えてしまう。彼の死体も警察に届けることなく、自分で切り刻んで山に遺棄してしまう。恋人同士の恋愛があくまでふたりの個人的な関係である限りでしか恋愛は存在できないと言わんばかりに、彼女は彼の死を「社会化」することを拒んだように見えた。もっとも死んでいるのだから、恋愛はふいに終わらされたのだけれども、それを第三者である警察か家族、友人、会社の同僚に伝えることによって、彼の死を相対化することはなかった。彼女によって関係を相対化させられない気持ちがあったのだろう。もちろん、ここには救いがない。孤独しか待ち受けていないわけだが、それを選択しないわけにはいかないのが、個人史としての恋愛の終着点なのかもしれない。

考えてみれば、ひとはどのように結婚を決断するのだろう。年齢的、経済的にいちどきりの人生において、愛する人との最終的な契約=結婚に踏み切る理由があることはよくわかる。ただ、どの地点から個人的な恋愛に社会的な結婚を結びつけるのだろうか。個人的な恋愛を成熟させて、ついには第三者にも認めてもらおうとする欲望が結婚なのだろうか。しかし、第三者が認めないでも愛は存在できる。それとも社会制度的にも責任を負うことを認めることで、永遠の愛を誓うことなのだろうか。

いずれにしても、リン・ラムジーの映画では、結婚が重要なモチーフになることはないが、恋愛関係や家族関係の中で生まれる事情が、社会化される瀬戸際スレスレのところで揺れ動く人間の感情が読み取れる。それは、映画そのものが、人々が映画館に集いながら他人の人生を覗き見するという娯楽であることに結びついているように思えてならない。映画が生まれると同時にぼくらは、ひとの人生の苦しみや喜びを知りその感情を何倍にも増幅してきたけれど、それと同時にぼくらは自分の人生が最後まで他人との共有でききない、社会化されないごく個人的な記憶や感情を持ちながら生きているという事も思い出してしまう。人は何歳になっても孤独かもしれないし、死んでも孤独かもしれない。寧ろ、最後に死んでしまうから、孤独じゃなかったという言葉が後から追いついてくるだけのような気もする。直感だけど。

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