殴り書きのメモ01

1 月 8th, 2013

過去9年間の作品を編纂してアーティストブックを準備してます。ぼくの作品はどのような形式で語られるべきか検討した結果、できるだけ明瞭に作品の内容を日本語で書いてそれを36種の言語に翻訳することにしました。そうすれば、世界人口の8割くらいはカバーできる。あからさまに、英語標準化に対するオルタナティブを作ろうと思った。ちゃんと進んでるからすごい。何か言い出すとちゃんとリアクションがあるから人生は頼もしい。言語処理の研究者から外国語講座の先生までご協力頂き本当に感謝してます。出来るのは随分先になりますけど。ひとまず自分を叱責するつもりで、記しておきます。

現在、日本語、フランス語、ロシア語、エスペラント、ロジバン、韓国語、中国語、トルコ語、アラビア語、インドネシア語、ペルシャ語などの言語については、翻訳作業が徐々にですが進んでおります。おおよろ全体の1/3にあたる言語がカバーできたということです。これからは残りの作業を進めると共に、そもそもぼくがやろうしていることの自分のテキストを書こうか(書かないという選択肢も含めて)と考えているのだけど、どうもこれがおかしい。何かおかしい。ぼくはアーティストなんだから作品をバリバリ作ればいいじゃないかとも思うけど、なんでご丁寧に説明してしまうんだかと疑問に思う節がないでもない。というのは説明というのは、しなければ分からないし、程度が過ぎるとうっとおしいとなる。ぼくの場合、この案配は重要なのではないかとも考えられる。もっといえば、ぼくの説明によって作品が陳腐にもなるし、面白くもなるかもしれない。そうなってくると一層複雑で、作品にある程度の解説というか(なんで、そして何をどうした)っていう程度の説明は必須だと随分と前から思っていたけれど、じゃあ全部して説明して差し上げましょうというのでは、じゃあ作品観る意味がないじゃないの。と言われても当然で、それは僕が度々訪ねられる「展示する意味は?」という質問と随分と密接に繋がっているんじゃないかと直感で思った。まあ極端にいって、ぼくは直感と論理的な思考を分けて考えてない。

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