日記02

1 月 13th, 2013

子供のころから、人生に過度に期待しまくってる癖が抜けなかったからアーティストになれた。そういうことに善し悪しはないと今でも思うし、善し悪しはあると思うのであれば人生やり直したほうがいい。という僕は他人に厳しいのかもしれない。単なる人生の分岐点に立たされた時に指針をもっておいたほうがいいというだけの話であって、それ以上でもそれ以下でもないから、そのどっちらかであるならばいいのかもしれない。ひょんなことから(いつもそうだと勝手に思い込んでいるが)作品集を作ろうと思い立ってから1年以上経過してしまってるけれど、ようやく本気でやるつもりになってきて、それも36カ国語に翻訳しようということで合計ページは計算上では、1000ページ以上になることになった。そんなもの発行できるのかどうかなんて、どうも怪しいんじゃないかとも思うけれど、まあそうは言わずとにかくやれるとこまでは、とことんやってやろうということにしておいた。そういうことで今現在、およそ13種類の言語の翻訳作業を進めることまでは、なんとか目処がついて、あとは残り2/3になろうかという段階である。

なぜ36カ国語の言語に訳そうかと思うのは、単純に言って英語グローバリズムに対しての反抗心であり、英語を使わずしても36カ国語に訳せるならば、世界人口の80%近くまでネイティブレベルでカバーすることが可能であるからであって、英語グローバリズムに対するオルタナティブな世界創造の実践であった。このことはエスペラント語にも通じることである。至極単純にグローバリスムの単純化の過程で消されてしまった、規模の大小を合わせて7千種近くあると言われる言語になかから、できるだけ多くの人口をカバーする言語を抽出した。ただし、ある程度の無作為な部分もある。

また、言語がぼくの作品において、非常に大きな役割を果たしていることが、この頃明確になってきている。タイトルと作品の関係からも想像できるように、すべての作品は作品内容がタイトルに準拠している。言い方を替えれば、タイトルの内容をそのままそっくり現実化するというスタイルを用いている。というのは、作品で扱う内容に一時的にせよ言語的に意味内容を正確に掴んでおいてから、そこから不明確な現実へとダイブするという過程を辿る。この事実は、無意識ではあったが、自分がアーティストとして独自性の獲得を目指すのと同時に、パフォーマンスという肉体メディアを用いていることに由来するかと思う。ぼくは、作品において、パフォーマンスそれ自体が表現ではなく、パフォーマンスがメディアであるということを重々考えて来た。この場合、パフォーマンス=行為と置き換えて差し支えない。メディアであるからには、媒介する先があるということで、何らかの社会的、共同体的関係性の中でその行為が行われていることを意味するわけで、ダンスや演劇のようにその肉体の美しさを問われることはない。ぼくの行っている行為とは、世界史的に人類が、もしくは自宅の隣人が何の疑問を持たず日々行うそれと同じく解読することが可能である。ただし、ぼくの行動は、部分的に目的が空白にされていることが多い、ぼくのその部分を行為によって媒介させようと試みている。というわけで、ぼくの作品のタイトルは言語的に明確に意味が取れなければいけない。

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