師走のメモ03

12 月 27th, 2013

以下のテキスト、未推敲のものを敢えて掲載する。翌年に近藤恵介くんの展示において掲示される文章である。まだ推敲の余地また加筆修正する予定なので、適度に変更していると思われる。

近藤恵介と話をしていると、たびたび美術史とりわけ、日本絵画の文脈のようなことを彼は口にすることがある。ぼくはそれが何なのかさっぱり分からない。美術に、特に作り手としてのアーティストの意識に美術の固有の文脈など必要なのかとも疑問にも思える。そもそも、先人の芸術家や美術家と呼ばれる大勢の故人が残した遺物としての作品は「存在」するかもしれないのだが、そこに恣意的な視点を与えられた歴史にどんな意味はあるのか。たしかに様式の変遷や時代背景に呼応した優れた作品はいくつも存在するし、その土台にうえに僕ら現代の芸術家というものが制作している事実も理解できる。そのうえで、近藤は「過去にも美術があるらしい」というあっさりした感想から始めたと言う。その美術史と呼ばれるものと彼の芸術作品の創造とどのように結びついているの
彼と初めて会ったのは、10年くらい前になる。近藤の絵画を視たと記憶している、いくつかの展示の中で、池袋かどこかに当時、ギャラリーカウンタックという若いディレクターが立ち上げた場所で個展があるというので、伺った記憶がある。そこはごく普通の雑居ビルの2Fだか3Fだか4Fくらいにあって、住居としても住めそうな感じの場所だった。ああこんなところでも展示をやれるんだなとちょっと観てから、廊下で煙草を吸った。この時の絵画は、木目調の壁と床が効果的に絵画空間を作っていたように思う。それ以外にも展覧会以外にも会うようになったが、どうも、絵画そのものとアーティストである近藤の印象が、混じり合うことが時々ある。もちろん、近藤本人を絵画と見間違えたり、絵画を人間の近藤と見間違えることはありえないのだが…。
思考の流れとしての整理整頓。整理整頓、掃除という行動は、機械的に新しい風景を与えてくれる素晴らしい効果を持っている。掃除という行為者の意志に基づきながらも、モノの配置は行為者の意志には依らず最終的にはモノ同士の関係によってしか配置する場所は決定できないという、マクロとミクロの関係がある。自然界の多くの法則は、マクロな視点とミクロな視点が無関係に働くのだ。近藤の絵画を観ていると、そのような事を考えることが多い。
最初に彼と会った記憶を辿ると、ぼくがまだ学生時代に多摩美術大学の上野毛キャンパスの小さな校庭の薮のなかから彼は出てきたと記憶している。ただし実際には、学校に薮と呼べるような空間などないので、記憶と事実は違うかもしれないが、そういう登場の仕方だったと記憶している。その当時から髪型が変わっていない。誰でも髪は伸びたりするので、これも事実は違うかもしれないが、そういう同じ髪型を数年に渡って維持していたと記憶している。服装も今と同じものを着ていた。いや、事実と反するということは理解しているが、そういうふうに近藤が外見上は不変の存在として、ある種の意志に基づいて存在しているように僕が記憶していたということだ。実は、近藤にとっては意志のない存在は、そもそも存在と呼ばれないモチーフに変化していく。それらは、動機という不安定な輪郭なき初動の彼岸である。
近藤は、整理整頓がとても得意だ。得意というレヴェルではなくごく自然に生活の一部の行為の中に、モノの整理が取り入れられている。それは、単なるモノの荷捌きだけでなく、実際は爪の手入れやカバンの中に入っている筆入れの表面や入れられている筆の順序まできめ細かく意識が行き届いている。そして、その行為が近藤の絵画表現の延長上に見えてくることもあるのだった。彼はキャンバスの外に躍り出ても、その筆を止める事なく仕事(=整理整頓)を続けているように思える。厳密には、その境界線は存在できない。
つまり、近藤の絵画表現の発端は無秩序に散らばった有象無象の世界を近藤の手腕によって整理整頓および手入れをすることにあるのではないだろうかとふと思うことがある。ぼくの知る多くの画家が、制作や生活の場とする部屋の配置を日々絶えず気にしたり、手入れに気を使うのもそのためかもしれない。いや、これは画家における単なる一般論だが、近藤の絵画は、その構図がわざわざ宗教絵画に見られるような図像的にモチーフに宿命や重要性が付加さたような印象を持つように操作されていく。それは、我々が生きる現代が、過去の歴史を幾重にも重ねたうえにしか存在しえないことを示唆する。
散らかったモノを整理するということは、同時にモノをどこかに意志を持って再配置することに他ならない。そもそも美術表現というものは、何かを意志を持って再配置することが本質なのであるが、近藤の場合はとことん純粋に整理整頓にこだわっている。それも多くは、直線、垂直といった数値で割り出せるシステマティックな近代化思想によって荷捌きされる。しかし、その印象的な構図にもかからず、そこに宗教性は愚か宿命のエネルギ−の一端も見いだすことはできない。結果と原因を裏返したように、近藤の場合はあくまで目的が整理なのではないかと思わせるようなまでの徹底ぶりが微かに見えてくるのである。
いや、この場合、近藤の場合、日常的に目にするありとあらゆるモチーフが象徴的な構図に置かれ時に、半自動的に歴史の宿命を担わされる表舞台へと切り替わるその可笑しみを我々の社会構造的との類似を込めて冷静に眺めているようにも思える。近藤はいつまでも冷静なのだ、いや、冷静であろうとする態度が近藤を形成しつつもある。彼が場を取り乱し、乱調に溺れようとはしまい。その冷めた視線は実際のところ、めぐりにめぐって彼の近辺整理の矛盾を辿り、彼の絵画表現を出発させている。
とはいえ、僕にとっては、いつか近藤が取り乱している場面も見てみたいものだ、と思っている。他人のことを言うのは、ひどく無責任で簡単なことかもしれないが、人に見せる自分と見せない自分が共存しながらバランスを取るのが多くの人の定めであろう。だが、そんなせめぎ合いの中で制作される絵画はその部分には何も語ろうとしない分、芸術に生きるという意気込みが何となく理解できるような気がする。先から、何度も繰り替えすようで、具合が悪いかもしれないが、近藤は整理整頓が得意だ。ここで言うところの整理とは、全体の統一もしくは、統制と言って良いかもしれない。つまり、個々の存在が全体に関連付けされる状態を指している。近藤はいつも全体の統一感を優先させる。あくまで、日本語で言うところの、「場」とでも呼べるような、それも歴史的な太古から続くあるひとつの共有されうる大地に共存されていることを確認できるとでも言える時間的に、空間的に結合された時空の創作にほかならない。強いて言えば、その場においては、個の存在などはあまり尊重されはしない。寧ろ統制を目的とした場では、個々のオブジェクトは全体を構成するパーツに過ぎない。人体におけるひとつひとつの細胞とイメージしても差し支えないだろう。近藤はそのような、絵画を目指している。ここで近藤は場の創造という接点から、一気に過去の故人が残した作品、群美術史、文脈を巡る思考へ一気に飛躍することができる。物質が人間存在よりも優位なことは、多くの物質が人間の人生80年余よりこの世にその姿形を留め続けられるからで、作品は完成してしまえば作者であるアーティストの人生とも無関係に存在し続ける。多くの場合は、何世紀に渡って保存する技術もある。

しかしだ、事はそんなに都合よく解決できない。絵画は、そんなに簡単に完成しない。近藤もうすうす気づいているのかもしれないが、どんなに合理的に数学的に科学的に理論的に図像学的に家庭的に紳士的に、場の統一をはかろうとしても、黄金律的な構図はさして面白みがあるものではない。ある場所に配置された個体が、近藤の意志によらず具合が悪くなる、その瞬間訪れのほうが、よっぽど刺激的な絵画的な空間の創造だ。毎日のように家を片付けても、また配置換えをしたくなるのと同じように、日々変化の中にしか人間の存在も、意志も、あらゆる価値も存在しえないことを知っていながら、絵画表現という「定着」を基礎とする芸術表現に挑むのが近藤であり、ある種頑までにバランス重視の人間であることはお分かりいただけるであろう。近藤は、バランスが崩壊する瞬間を前提として、絵画を描くのだ。

Leave a Reply