オリオン座になるのだ

6 月 15th, 2009

ここ1年くらいの間に3人の友人が結婚をするというお知らせを頂いた。ぼくは結婚なんてできる高度なコニュニケーション能力を持っているひとのことをとても尊敬をしているし、また羨望の眼差しで見つめてもいるし、素敵だと思うし、浅はかな単語だけど凄いとも思っている。それを誰それ構わず話しているのだけど、へーあーそうーなのーなんて結構単純にあしらわれてしまうので、それでももってまたドンヨリする。どんな事情があろうともどんな酷い仕打ちが待っていようともふたりで人生を決めていけるその人間的大きさに心底感服し、そしてまたそれが自分に欠けていることを恥じると同時にはたまた関係もないような人間力だのという単語を持ち出したりしている。

パトリシア・スタインホフという女性社会学者の日本赤軍に関する書籍を読み返していて、赤軍のテロに関する分析のなかで、あるテロリストがテロを遂行させて自分は死にオリオン座になるのだ!という発言から日本人的な生死観では、死は単に越えるだけのものであって、それはみなに平等にやってきてそれ自体には意味がなく、またいつどこでなどという意味もないということが書いてあった。合理的に考えればそんなオリオン座になれるかどうかなんて死んオリオン座になった人に出会えるわけもないので、分からないのだけど、それをひとつの通過点として捉えて輪廻転生のことを考えているのは、現代におけるぼくたちの世代ではやや不気味なのだけど、そこまで信じ込んで(疑いの余地がない)雑念を持たないというストイックさには恐れ多くも感服する(したい)。つまり考えて見れば、オリオン座になれるという根拠は自分が死んでしまってもこの世界が存在しているということなんじゃないかと思った。つまり自分と他人の境界線が明確でなくて、自分はあくまで世界の一部であってその一部が別の一部に生まれ変わるというだけのことを言っているんじゃないかと思った。そう考えてみるとちょっと面白くなってきて、どこかでとても大きな共同体を形成しているという想定で物語を構築していて、ぼくが生きているということは全人類に関係していることですということであったりもするような感じになってくる。絶対的な自己完結のできない、いわば絶対他者依拠でしかありえないような世界を話し始めているんじゃないかとも思ってきて(じぶんの都合の良いように解釈していくと)。その文脈で結婚のことを少し思い起こしてみると、愛してやまないひとと結婚をしていくことは、不完全な自分をどこかで補填できる絶対的な他人を求めているような感じでもあるし、それを行うことでようやくひとつの共同体として本来の人間として生まれましたというような感じの話をしているような気がしてならない。自分とは自分以外のすべてのことを言っているような気がする。つまり、生まれたという事実は両親という歴史を背負っているのだ。つまり子供は歴史なのだ。

今日はこれでおしまい!

みなさん婚約・結婚おめでとう!

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