刑務所でタンゴを教える

10 月 5th, 2009

「私達」という言語的意味の内容を取り出してその役割の転換または見直しをすること。そのために、代名詞はその内容をできるだけ具体的に読み替えて考えないと、いつのまにか思考停止になる、という時代に生きているような気がする。

ぼくは日本で良く使われる「社会人」という言葉がとても嫌いだ。日本での意味は「社会人になることは会社員になることとほぼ同義化されており、会社組織に所属して一定の雇用上の地位を得ること」だという意味において。他の言語にはそんあ言葉はない、socialistという言うと社会主義者になる。とても嫌いだでも、それが出来た原因があるはずだ。もっと具体的に言うとそれが当然のようにあって、それを当然のように使っている社会が憎い。じゃあ、そんな言葉使わなければいいじゃないと思うけれど、ぼくはじゃあ何でそんな言葉が日本に定着していったのかということの問題系からさらに発展させて、ちょっと考えてみたいことがある。

まず、定義が曖昧すぎるけれど、暗黙の了解のような感覚で使われているあたりが憎い。憎しみがある。主婦や学生や老人や赤ん坊や浮浪者はどうなるんだろうか。非社会人かな、となるんだろうか。じゃあその社会というのをきちんと明確に訳そうとするとたぶん会社ということになってきて、じゃあ会社に勤めると社会人となって、ああそうかここのところは明確だね、就職すると「社会人」だね。つまり、社会はどこかの会社に勤めること要求していて、それが良しとしているんだね、じゃあ「会社人」と言えばいいのだけど、そうなっていない。どうしてだろうと思うと、ぼくが思うには、たぶん答えはひとつじゃなくては行けなかった歴史的背景があったんだろうなと思っていて、それは軍国主義時代くらいに遡ると簡単にわかるのだけど、たぶん国民の模範的人生行動というのはひとつでなくてはいけなかった、つまり意志はひとつに統一されている必要があったのかもしれないなと勝手に思っていて、じゃあなんで今頃そんな事言うのかというと、初めての義務教育の小学校でもほぼすべての学科で答えがひとつしかなかったし、あったとしてもあまり教えてくれない。しかもあるかどうかさえも教えてくれない。つまり教えないということを教えていて、うんそうか、わかったぞ。となることを目指しているかもしれない。で何を考えたいのかというと。会社人じゃなくて社会人であって、それにあまり文句も言わないですごしているぼくたちのことについて。それで何らかの不利益を被ることはすくないのだけど、ぼくたちも社会人だとか我々も社会人だと大声で言うひとは少なくて、なんとなく関係ないひとは関係ないふりをしていて、それに属するひとだけがその言葉を使っていて、つまり「対象外のひとと私は違います」と言いたいだけなんじゃないかと思うことがある。でも会社人(厳密にはこちらが正確でも)というと、あんまり格好が良くないので、もっと強烈な社会人!となったんじゃないかとぼくはちょっと思っている。だって明らかに社会という概念のほうが会社という小さな概念よりも大きいし、威厳があるような気がする(だけ)。

そこで、私とか私達という言葉が面白くなってきて。なんで社会人とかいう言葉を作るか思うと、たぶん自分が「私は社会に参加している」意識を持ちたいためにそんなふうに言っているんじゃないかと思う。で私とか自分とかの代名詞として社会人が登場するだと思う。いつもみんな自分を言い換える言葉が欲しいのだと思う。自分を代弁してくれる何か強いものが。で、ここで逆戻りして、社会人=社会に参加しているひと=私、と取り出す過程があるのだけど、面白いのが「私はどんな人?」ではなくて「私はどこに属しているひと?」っていつのまにかすり替えられていて、ここが結構面白い。いつだってぼくらは自分がどこにいて、何をしていて、誰かよりも優れていると思い込みたくて、自分はやればできる子だと思いたくて、そんな気分で生きているんだ。そんな気分を気持ちよく解決する言葉なんじゃないかと思う。もちろん、全面解決はもちろんできないけれど、言葉の魔術としてのある効果だけね。

だけど、それが最高に苛立つというわけでもないけれど、
じゃあそんな世界に生きているぼくたちはどんなことができるかとちゃんと考えることがぼくにとっては面白いので、アイデアが必要になります。本当はみんな赤ん坊でも学生でも主婦でも老人でもみなさん、ちゃんと社会を構成している人間なので、そんな社会人なんて言葉を使わなくても良いように、もう少し大きな枠組みで自分たちを捉え直していって見ることが必要かもしれません。ぼくはそこから逸脱する人間が概念を具体的に探りながら、ぼくたちの言語社会を通してもうすこし、じぶんたちのことを考えていきたいと思うところです。

で、「刑務所でタンゴを教える」というアイデアがあって突拍子もないことなのだど、なんとなく可能性があるんじゃないかと思う。これはカナダで知り合いの聞き間違えをぼくが聞いた事から始まったなのだけど、それはそれとして、このアイデアを実現させって面白いかもと。考えてみれば面白い題材もたくさんだ。

以下、Wikipediaより転載

社会人(しゃかいじん)とは、社会に参加している人のことである。一般に社会で責任を持って生活している人を指すことが多いが、社会人=労働者と言った意味合いも強い。類義語として、職業に従事していることを強調した用語である職業人(しょくぎょうじん)がある。

現代日本のような会社社会(会社と社会が同一視されるような社会)にあっては、社会人になることは会社員になることとほぼ同義化されており、会社組織に所属して一定の雇用上の地位を得ること(例えば正社員となること)を指し示すことも多い。社会人は、実社会で権利と義務の主体といわれている。人格が完成しているものとみなされる。意思が尊重される反面、故意や過失などに対しては、多くの場合制裁を受け、個人の事情が特に配慮されて許されることは比較的少ないといわれている。一般に社会人の始期は学校を卒業・修了し、就職した時点であることが多いが、何らかの事情で学業の途上にあっても、同世代がほぼ全員大学を卒業する20代半ばには、社会人として待遇されることが比較的多い。社会人の終期は、60歳程度であることが多く、一般的に定年に達することなどによって退職を迎えた時点である。しかし、60歳を超えても、再就職して社会人であり続ける人もいる。
社会人の場合、ある程度責任ある仕事(職)を持ち、家族の生活を支え、現実的な思考をしている姿が歓迎されるといわれている。 社会人は利益を求めて働くものである。よって専業主婦は社会人には含まれないことが多い。
もともと「社会」というのは欧米からの翻訳語である。それに日本独自のニュアンスが加えられた。日本語以外の諸外国語では日本で言うところの“社会人”をさす言葉はほとんど見られない。たとえば英語では労働者(worker)や成人(adult)、市民(citizen)という単語はあるが、”社会人”そのものを指す単語はない。(”socialist”という単語は社会主義者、社会党員という意味であり、用例が異なる。)そもそも「社会」とは、人と人との繋がり、人々の集団と言う意味であり、子どもや学生、高齢者、退職者でも他人との何らかの繋がりがある限り社会に参加している人=社会人である。つまり人間である限り社会人であると欧米人は考えるためである。

Leave a Reply