問題の作り方

2 月 12th, 2010

結局はみんな良くわかっているんだと思う。PCにかじりついてmixiやfacebookやったりして、ああよかったねえ。なんて言っているだけで終わっては行けないってことが。美術館に行って作品を見て楽しかったね、とか演劇を見て感動したとかじゃ。問題の最終目的地はいつだって、現実に向かっていかないとどうしようもないってことが。現実は不公平な理由で戦争や争いがあったり、死んでいくひとがいたり、家がないのにどうしようもなくて毎日お風呂に入れないで何もできないで寂しがっているひとがいて、それが問題であるってことが皆、明白な問題だってことが分かっているとぼくは思う。だからぼくがやっている活動だってこれをお米やパンに変えてお腹をいっぱいにはできないけれど、どうににかその為のエネルギ−に変えることができるはずだ。現実にどう切り込んでいけるかってことが一番大切なのに、どうも一部のみんなで楽しくやりましたということが良く起こっているようでぼくは悲しいというか寂しいというかなんとなくつまらないというか、そんな感じのことを良く思っていることもある。だから美術館とかギャラリーのオープニングとかでワインとか美味しいものをたらふく食べてああ満足だわ!って思っているのはそれはそれで楽しいけれど、どこか心の底でこれでいいのかなあって思っていたりもしているのだけど、それがうまいことバランス取るってことが一番のアーティストの仕事なのかもしれない、だから両方やればいいってことなんだけど、結構難しい。ぼくの作品のことを良くも悪くも政治的だとか言うひといるのだけど、それは当たり前のことで生きるってことは、現実の社会の問題とどうやって折り合いを付けていきていくかってことの闘いのことなんだから、トートロジーである。

最終的には美術はダミーであって嘘であるんだけど、その嘘をいかに利用してみんなの目前に迫っている現実の問題に関わって変えていけるかどうかってことなんだと思う。だけど、こうやって海外へ何度かやってきていると常々思うのだけど、やっぱり日本は自力で市民革命を経験していないというか独立を勝ち取っていないといか、それは常に天から授けられたものというか、それは最初から与えられたごとくに存在しているように感じられて、どこの国に行っても隣国との争いやアイデンティティーが問題となるのだけど、日本は最初からしかも日本人みなで共有されていることが前提として存在してしまっていることあるんじゃないかなあと良く思う。ぼくはそれの裂け目の中でどうにかこうにか、共有しきれない部分をもって作品を作っているのかもしれないなあと思う。

面白い人生になってきた。

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