隠された接頭語は「行ってきます、さようなら」でしかないような気がする
3 月 4th, 2010最終的にひとは何を残せるんだろう、と考えると何も残せない気がする。残した気がしているだけで作品が美術館に所蔵されったて、アーカイブに記録されったてそんなのまやかしだとしか思えないと思った。そんなの事言ったら、誰だっていつもどこかで誰かと会って何かを話て、人に何かを伝えてちゃんと残している。そういうことなんじゃないかと思った、だからすべての物は消滅するという大前提のもとで生きていたほうが賢明なのかもしれないなと思った。ぼくは運よくほとんど物質的な作品を作ることがないので、そういうところでの葛藤というのを経験しないでいたけれど、考えてみれば当たり前のことでしかないなあ。ひとは誰しもいつしか死ぬという宿命から逃れることができないから懸命に生きよと説く人がいて、人は人と約束をして未来というのを作り上げとうとして、許すということで過去の責任から逃れるすべを差し出して生きているような気がする。東京にいたらよくわからなかったことかもしれないけれど、とても良く分かるというか納得できることだ。生きる為に活動することがすべてであって、くだらない労働に説得される必要はないということだ。生きるか、死ぬかのギリギリのところで苦し紛れに闘っているんだから、そんなことで時間を使うのは良くないいうのも、至極当然に理解できるし、未来に向かってしか生きることができない僕たちはいつだって隠された接頭語は「行ってきます、さようなら」でしかないような気がする。それを良くみんな本当は理解しているから、映画を見たりして感動なんかしたりしているんだと思う。
チェゲバラがあるインタビューで「あなたにとって革命とは?」と聞かれて「愛だ」と言っていたのを思い出していて、ロマンチズム過ぎるんじゃないかとも思ったこともあったけれど、これを「死について考えることだ」と読み替えるとすごくなっとくできるような気がする。ぼくは最近、愛は死について真剣に考え、行動し、話し合うことなんじゃないかと思う。だから、愛するというは互いの生命に責任を持つことなんじゃないかと思った、だから愛してない人と間に子供を作ってはいけない。そして、ぼくらの人生が常に「行ってきます、さようなら」である限りにおいては、常にぼくらは死に向かって歩いているわけで、ゲバラが兵士になる前は医師だったというのは根源的にゲバラはそれを知っていて、そこに関係しているんじゃないかと思う。だから、怖い時も、痛い時も、愛を感じた時も、同じようように自分の生命に対する死を感じた時にひとは泣くんじゃないだろうかと思う。
