公共は盗むことができるか
3 月 6th, 2010「おやすみない」という言葉はいつ生まれたんだろうかと考えてみる。僕らはいつの時代に生まれようとも時間の有限性のなかで、つまり命や感情はいつしかなくなってしまうことだったり、いつしか自分の身が砕け散ってしまうという儚さのへの些細な抵抗が文明を支えて来たようにも思えるし、その反抗が願いかなうとは分からないままに進んできたと思う。でも確かに技術や文明だったりしない文化の中に、人間が人間であることの面白さが隠されたいると思った。それはどの人生の場面であっても日々の暮らしは、出会いと別れに集約されているように思える、それがさまざまな形になって繰り返されているのであって、それがまさに人生なのかもしれないなあと思う。ぼくだって日本に帰るといつも、簡単に資本主義経済の闇に没落してしまいそうになって、何が労働で何が仕事なのかおぼつかない状態になりかけることもあるけれど、はっきりしておかないと大変なことになることが沢山あると思う。多くの場合はそれが公共という概念と結びついているような気がする、私達日本人にとって公共とは一体なんだろうかと想像することは、かなり難しい。たぶんそんな概念がほぼ無いんだと思う。よく公共の場で「そんなこと」してはいけません。と聞く事があるけれど、たいがいの場合は「人様の前で」という言葉に置き換えられる。というのは、人に迷惑をかけてはいけない、人が不快だと思うことをしてはいけないと言うかもしれない。もちろんどこに行っても迷惑をかけていい場所なんかどこにもないと思う。ただしだ、そこでおざなりになっているのは、おそらく「人様が思うように振る舞いなさい」ということにいつの間にか変換されているような気もする。で、例えば「公共」を盗むことはできるか?ヘルシンキで聞いたら答えはNOだった。それは誰の物でもないし、盗む内容というものがない。市民の手でどんどん変化してくものだ。どうなろうとも皆の責任で、みな関係していくものだ。ただおそらく日本で聞いたらYesになるとぼくは思う。つまり公共の内容というものがある程度設定されているからだ。これは大きな違いなのではないかなあと思った。以前、イラクで拉致された日本人に自己責任と言った人たちには、きっと自分とは関係のない世界というものがあると信じられているからではないかと思った。そのことととても似ているような気がする。