30年目の覚え書き

5 月 11th, 2012

そうだよねえ、すいませんでした。という風に謝るつもりは全くないのだけど、そう言ってくれて結構だと言われているような気分にさせてくれるひとがいたりして、しかも根掘り葉掘りいろいろ聞いているとだんだん相手の顔がおかしくなってきて、ああこれは怒っているなあと思うこともあったりして、時々「失礼です」と言われることがあるけれど、ぼくはなんにも失礼だとは思っていないから、ひとまず分からないことは聞く。女性に、あなたおいくつになりまして?と聞くのは失礼らしい。体重はいくつですか?と聞くのも失礼らしい。給料はいくらですか?確定申告してますか?とか聞くのも失礼らしい。良くわからないけれど、これは女性限定で失礼になるらしい、事実ぼくはこうゆうことを時々聞かれる。ちゃんとご飯食べてる?とか体重どれだけ?とか、ちゃんとお金あるの?財布にいくら入ってる?とか聞かれるから、普通に答える。もう一度言うと、これは女性には失礼らしい。女性はベールに包まれた存在じゃないといけないらしい、具体的じゃないほうがいいらしい。そいうことを言うとまた、失礼ですと言われるけれどそうみたい。具体的な質量を持っていないのが女性の特権らしい。その感覚に反論したいわけじゃないけれど、その感覚でいつまでいられても困る事もある。ぼくらは人間だ、分からないことも度々あるだろう。少なくとも建前上は、同じ世界に同じ社会に生きているはずで、違ったレイヤーなのよと言われるかもしれないけれど、ぼくはあなたの事が見えているわけで、その存在の半分くらいはなんとなく認識しているますぞ、ということなんだけど、どうなのかしら。そう言われる度、へえそうなのかあ、じゃあ今度はもう聞きません、と肝に銘じるのだけど、その項目が多いから困る。最近気づいたのは、数値は聞いてはダメだろうなということだった。数字は、より具体的な極地なので、数字以外の方法で認識を深めるがいいらしい。体重は100kgですと言うよりも、お相撲さんよりは重くないと言ったほうがなんとなくイメージがいい。そうイメージで生きているのだと言いたいのかもしれない。そうだけどねえ、ぼくらはコンビニでイメージは買うことができないし、死ぬ時にイメージがどうだとか言うのもなんとか腑に落ちないというか、死ぬならもう怒られないから、そんなの嘘だよと言ってやりたい気分にもなるんだれど、そいうことを言って納得するのはまずいないのかもしれない。そして、もうひとつ気づいたのは、人(特に女性は)人生をより良く生きることに専念しているのであって、ぼくにその感覚はこれっぽっちもないのだった。非常にぼくは虚しい人生観のなかで生きていると言えばそれまでかもしれないけれど、ぼくは少なくとも闘いを強いられていると思い込んでいる節があって、人生が豊かになるとか充実させるという感覚ではない。先に目的があって、それをいかに達成しうるかという野望的な闘いだ。格好つけて言えばだけど。だから、与えられた有限の人生のなかで、自分を豊かにする、という感覚ではない。寧ろ、目的の為には、自分が被害にあってもいい。実際のところ、アーティストを続けるうえで、多大なる貧困に立ち向かううでは、この考えは強い。屈することはない。ただ考えて見れば、どちらが自分なのかも分からない。目的に向かう丹羽良徳も自分だが、腹が減っている丹羽良徳も自分なのだ。というような、二重のレイヤーのなかで自己の像を結び上げていきている。だから女性の友人により良く生きることを説明されても、ぼくはこれっぽちも理解できないまま時間が過ぎ去ってしまうような気分だった。でもそれはそれでいい。分からないことは、聞けばいい。ただ、問題なのは、分からない事ばかりの世界のなかで、いつのまにか分かっている事にされていることを皆はいつどこでそう理解しているんだろうかと、いつも疑問に思ってしまう。お金を獲得(敢えて稼ぐとは言わない)術だって、働く術だって、どこでどうそう覚えたのだろうか。ぼくにはこれっぽっちも、分からない。だから、いつも0から全部聞こうとするのだけど、どうも具合が悪いらしく、なんでそんなこと聞くのかね?あなたは、みたいな顔をされて、仕舞いには機嫌が悪くなるひともいる。だけれども、僕からしてみれば、分かっていることは、自分がいつか死ぬだろうという事くらいで、その他のことはこれひとつとして理解できないままでいる。だから、作品が作れるのだと思って信じて止まないのだけど、そうでもしなくて、本当に人生を豊かになんてできるものか?という疑問でいっぱいだ。永久に分からないまま死んでしまうのかしら、なんていう一抹の不安もあるのだけど、ようやく30歳になろうとしつつある段階のなかで、いやこれはもう40歳になっても、50歳になっても同じことだろう、いきなり神様が降臨することなんてないだろうという想像はつく。あるアーティストに聞いたところ、40、50歳でも全然、失恋するよ、と聞いた。当たり前だ。でもそういう、当たり前の事を言ってくれる人が僕はとても、必要だと思う。いや違う、ぼくはその聞いている女性と距離が遠いのではないか。それは事実そうなのかもしれないけれど、距離は測るものであって、作り出すものではないだろう。いや、何を言っているか自分でも分からない。例えば、あ、あの子可愛いなと思うコンビニの店員がいても、レジでおつりをもらう瞬間に手を握り返しえて離さないままでいれば、きっと警察に連れていかれる。いや、現代都市的にはそこから始まるかもしれない。いや、間違えていけないのは、それは単なる不審者なのであって、一方的な攻撃に過ぎない。

生活だとか、暮らしだとか言う言葉が非常に嫌いだ、意味が分からない。そもそも意味がないから苦手なのかもしれない。そこに充実感を得られる人ならば、よかろう。ただぼくには無理だ。人生はなんらかの目的化されたものでなければ、そうしてこんな虚無の時間をやりすごせようか。否、人生そのものの時間の中に浮遊すればいいじゃないかとも思う人もいるだろうけれど、それじゃ何もかも台無しだ。さよならだけが人生ではなかったのか。そんな事を想い巡らせていると、有限の人生の時間の中でよりよく健康的に暮らすことが幸せだなんて言うのは、何か忘れ物が多過ぎな気がしてならない(誰かの批判をしているわけじゃない)。ビールを飲むことが苦手なのも、同じ理由だということに最近気づいた。ビールを飲むことに意味はない。でも大抵の意味のないことは、ある一部の人にとっては快楽的であって、心地の良いことらしい。そいうことを考えていると、ひどくつまらない実も蓋もない人間のようだけど、とにかく当たり前のことがどうにか、分からないままで生きて行くのが一番充実した人生になるように思えてならない。

Leave a Reply