私的講義

6 月 1st, 2012

いま、書籍出版のために文章を書いている、これがいつ書店にならぶのかは全く不明であるというかぼくの頑張り次第なのであろう。とても慣れない作業の連続で参ってしまったというか、これは筋トレが必要なのではないかと思うことが多い。ただし、気をつけないといけないのは、筋トレすれば結果が出るというわけでもないということだ。インタビューを重ねれば重要な事実を突き止められるとか、議論を重ねればいいアイデアが出るなんていうのは、真っ赤な嘘だ。それは思い上がりと言っていい、そういった努力の積み重ねで進む方程式というは、表向きは賛同を得られるだろうけれど、きっとそんなことはない。ひとは生まれながらに不平等に生まれてきて、不平等な運命を背負って、不平等な社会の中で選択を強いられる、それはもう分かり切ったことだ。そんなことで驚く人はいないだろう。ひとだって、それぞれなんとかしようとするんだ、ただ同じ努力や同じトレーニングで、同じように結果を出せるとも限らない。努力しないでも結果だけだす事だって現実的にはあり得る。いや、ぼくが努力を惜しんだり、否定しているわけじゃない、そういったことですべてが決まってくるわけではない、というポイントを確認しようとするだけだ、その宿命的な中で努力の価値もいかようにも変化してくるだろう。ここで、自分以外の他人と触れる時の問題にぶちあたる。いかに、自分とは全くフィールドの違った領域にいる、その人とどうのように何を共有したら良いのか、いや最終的にはできないのかもしれないが、そのできないと分かり切ったところから、いやもしかすると出来るかもしれないという神話的な未知なる想像を重ねることが愛なのかもしれない。いや、どうだろうか、勝手なことを言うとまた可笑しくなりそりそうなので、結論は出さないでおこう。きっと、死ぬまでは悟ったふりをしても無駄だ。きっと現実は非常に、残酷で虚しいと言ったほうが分析的かもしれない、でも四六時中分析をやっていればいいかと言うとそうじゃない。残酷で虚しいからどうするんだと考えることだ。今日、読んでいた本のなかで、人間の生存権と動物の生存権の話を読んだ。それによれば、人間はすべての個体の生存権を認めないといけないが、動物にそれを適用すれば大変なことになる、全員ベジタリアンになって、捕鯨禁止を叫んで、動物実験反対を叫んで、害虫駆除反対を叫ばなければいけない。しかも、それが過剰に進めば高等生物と下等生物へ選別されていく、いわば人間様が活かしておく動物を選ぶようになる。という。ということは、現状われわれ人類は、動物を殺生し喰うことを認めるが、種としての動物や自然の保存を求めないといけないとある。つまり、われわれは動物を殺すのだ、見ようによれば虚しいかもしれないが、それが人間のやることだ、という二重のレイヤーがほとんど重なることなく並行してしまう。そこにいくらかの指針を与えることが倫理学であるかもしれない、結論なき現実に決断をするのが愛なのかもしれない。なんてね。

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